「そ、そんなこと、言ってませんから! 都合よく解釈しないでください!」

「ふうん、まあ良いか……」

 すると、桃花はパッと彼の腕から解放された。
 何事もなかったかのように、二階堂副社長が告げてくる。

「ああ、次の取引先との会合の時間だ。さあ、行こうか?」

「あ……」

 なぜだろうか。
 彼が離れるのを寂しいと感じてしまった。

(私は仕事中に何を考えて……)

 すると、二階堂副社長が口の端をゆるりと吊り上げて揶揄うような笑みを浮かべた。

「何? もっと俺に抱きしめられていたかったの?」

「なっ……!」

 図星を指摘された気がして、桃花は顔を赤らめながら抗議を続ける。

「違います! 副社長はモテるからって調子に乗りすぎです!」

「はは、そうやって、ムキになって反論する桃花ちゃんも可愛いよ」

「っ……! 揶揄うのは辞めてくださいっ……!」

 桃花は反論すると、ますます二階堂副社長が悦んでしまった。

「うう……」

 彼女が頭を抱えていると、彼がポンポンと彼女の頭を叩いてくる。

「さあ、行こうか、俺の専属秘書さん」

 そうして、二階堂副社長が桃花の前を歩きはじめた。

(あ……)

 彼の背中を彼女は追い掛ける。
 心臓はドキドキして落ち着かない。

(どうしよう、二階堂副社長の前だと自分を取り繕えない……)

 竹芝からの発言も脳裏に浮かんでくる。
 桃花は、最近の自分の変化にどうしようもなく戸惑いを隠せない。

 その時……

「きゃっ……!」

 二階堂副社長が突如として歩みを止めたため、桃花は彼の背中に激突してしまった。
 彼女は、ぶつけてジンジンする鼻先を思わず手で庇う。

(ううう、いたた……)

 立ち尽くした二階堂副社長がポツリと呟いた。

「ああ、そうか、今日の取引先って、あいつだったのか……」

 桃花はこれから会う予定の取引先の相手の名前を思い出す。

(確か、名前は……)

 すると、二階堂副社長の前に、さっと影が差す。
 彼と引けを取らないぐらいの長身の男性が姿を現わした。
 黒髪をオールバックにして流し、穏やかそうな黒い瞳、きりりとした唇の持ち主だ。アッシュグレーのスーツをかっちりときこなしており、厳格そうな印象を受けると同時に、雄々しく冷たい印象も持ち合わせているが、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている。


「嵯峨野武雄」


 二階堂副社長の雰囲気がピリピリと緊張したものへと一気に変貌したのだった。