(仕事中に感傷的になってはダメよ。特に仕事で感情を表に出すなんて、ありえないわ)

 桃花は、帰り際に立ち寄った給湯所に飾られた鏡を覗いた。
 透けるとアッシュグレーに見える黒髪をきっちりまとめ上げ、ナチュラルメイクを施している。小動物のようで年齢よりも幼い印象の顔立ちだが、働いている時は相手から舐められないようにと、アイライナーで眉尻を少しだけ上げてキリリとした印象が強く見えるように工夫しているのだ。
 桃花の目尻に涙が浮かびかけていたが、一度手の甲で拭うと、オフィスバッグの中に潜ませてるものへと視線を向けた。

(可愛い白うさぎのぬいぐるみ)

 両親が最後にプレゼントしてくれようとしていた、大好きなふわふわの白うさぎのマスコットだ。背中にチェーンがついていて持ち運び可能なものである。
 仕事で何か辛いことがあった時、この子を見たら心が安らぐ。

(シャンとするのよ、桃花)

 そうして、桃花は前を見据えると、給湯所を出で、颯爽と前進しはじめる。
 ちょうどその時。

「ねえ、君が社内で噂の新人社員・梅小路桃花さん?」

「え?」

 突然聞き覚えのない人物から声をかけられて、桃花は声のした背後を振り向いた。
 そこに立っていたのは、社内の中でもダントツに身長が高いだろう人物。
 まるで海外の俳優のような見目麗しい相貌にモデルもかくやといった均整のとれた身体つき。

(この人……)

 さすがに噂話に興味のない桃花でも知っている。
 今をときめく二階堂グループの御曹司であり、二階堂商事の若き副社長――二階堂総悟(にかいどうそうご)
 まるでモデルのようなルックスで、女性社員たちを虜にしている。
 高層ビルの窓から差し込む光が、彼の色素の薄い髪をまるで金の如く輝かせる。
 日本人とドイツ人の混血であるからか、日本人よりも全体的に色素が薄いのだ。
 翡翠色の瞳は、柔和で穏やかで、どこか人を揶揄うような雰囲気もある。
 平均的な日本人男性よりも高い鼻梁の持ち主であり、引き結ばれた唇には凛々しさと雄々しさとが兼ね備えられていた。
 高級そうなスーツを着崩しており、はだけた開襟シャツの隙間から覗く骨ばった鎖骨に厚い胸板。
 大人の色香を放っており、桃花は総悟に思わず見惚れてしまいそうで、自身の心を律した。

(どうして、二階堂副社長が私に声をかけてくるの?)

 日本の有名私立大学を卒業後、海外で博士号を取得した後、日本に帰ってきたのだという。
 眉目秀麗、学生時代は成績優秀、身体能力にも恵まれており、誰に対しても愛想が良く、優しい態度で接することができる。
 語学も堪能で、海外から色々な仕事を運んできてくれる、社内でも要のような存在。

(大学時代なんかだったら、絶対に喋っていない相手)

 どちらかと言えば、桃花が避けてきたタイプの男性だ。
 華やかな印象が強くて、周囲の人々を自然と惹きつける魅力を持っている。
 どれだけ気さくに話しかけてこられようとも、同じ日本の中でも住む世界の違う住人といっても差し支えがない。
 そこまで聞けば、非の打ちどころがない人物のようなのだが……