「二階堂副社長のことを……」

 もうあの頃の、子どもだった頃の自分ではないのだ。
 なんとか拳にぎゅっと力を込めて、人だかりの方向へと向かう。
 怖いけれども、そっと現場を覗き込んだ。

「あれは……」

 見えたのは、担架に乗せられた妊婦さんの姿だった。顔色はやや悪いが意識ははっきりとしている。
 到着していた救急車の中へと、運び込まれていっていた。
 近くでは、五歳ぐらいの男の子と父親と思しき人物がキョロキョロしていた。
 男の子が興奮した様子で叫ぶ。

「すごい! 外人のお兄ちゃんが来て、ママを助けてくれた! あのお兄ちゃん、どこ行ったんだろう?」

「外人のお兄ちゃんが助けてくれたのかい? 最近は外国の人も多いからね」

「うん! 『ちゃんとお母さんを守ってやるんだぞ。守れるのは君とお父さんしかいないんだから』って!」

 ……外人のお兄ちゃん。

(もしかして二階堂副社長のことかしら?)

 そうは思ったが、彼らの近くにはどうやら目的の二階堂総悟の姿はないようだ。
 桃花は引き返すと、エレベーターに乗り、副社長室へと戻る。
 すると、総悟の姿があった。

「ああ、桃花ちゃん、おはよう」

「二階堂副社長、おはようございます。入れ違いになったみたいですね。タイムカードは間に合いましたか?」

「え? ああ、うん、打刻は間に合ったよ……! ごめんね、今日の予定を教えてほしい……!」

 総悟は汗を拭っていた。
 今日は自宅マンションから車での出勤予定ではなかったか?
 それに、正面玄関前からエレベーターまでそんなに距離はないし、エレベーターの中で足踏みしたところで、早く到着することはない。
 確かに外は暑いが、スーツのジャケットを脱ぐほどのことではない気がする。
 桃花は素朴な疑問をぶつけることにした。

「二階堂副社長、どうしてそんなに汗をかいて息を切らしてるんですか?」

「え? ああ、大したことないよ。そうだ、ちょっと着替えようかな」

 よくよく見れば、いつもは綺麗にしているスーツのパンツにも泥が付着している。
 執務室内にある棚にいくつかスーツの替えが仕舞ってあるため、そちらを準備した。いったん着替えに向かい、それから戻ってくる。

「ああ、桃花ちゃんのコーヒーが早く飲みたいな。挽きたて豆の良い香りがするね」

 室内にはコーヒー豆の香ばしい香りが漂っていた。

「ええ、副社長が大好きなミルクをたくさん入れておきましたからね」

「ああ、ありがとう」

 盆を片手に執務室の近くから遠ざかろうとしたのだが、なぜだか妙に総悟の声が近かった。
 振り仰ぐと目の前に総悟の顔があった。

「副社長……?」

 突然、美形に見下ろされてしまい、心臓がバクバク跳ねる。
 しかも、顎を掴まれる。

「朝、少しだけバタついちゃって、まだ朝ご飯を食べてないんだ……ねえ、良かったら、俺に朝から君を……」

 総悟の顔が近づいてくる。

(え? え? なんで、こんなことに……!?)