『あの……』

 だが、彼女はそれ以上は何も言わなかった。
 血だまりの中に倒れている女性を助けようとしたけれど――全身打撲して肋骨骨折しているかもしれず、心臓マッサージをしても状況を悪化させてしまうかもしれない。
 下手に身体を動かしても危険だと聞いたことがある。
 大した助けになることは出来ず、祈ることしかできずに時間だけが刻一刻と過ぎていく。

(何分経ったんだろう)

 まるで悪夢に長い時間晒されているようだった。
 道路の向こうから赤いランプが見えて――総悟はホッとする。

『良かった』

 まだ黒い車の運転席にいる男性は呻いている。救急搬送されれば助かるかもしれない。
 総悟と嗣子が乗っていた車が事故に巻き込まれたけれど、たいした怪我はしていなかった。
 とはいえ、総悟も事故に遭った人たちを助ける際にケガをしてしまっていたし、外傷はないかもしれないが何が起こるか分からないから病院に行った方が良いと救急隊員に促された。
 そのため、総悟と嗣子は自家用車で総合病院へと向かおうという話になった。
 総悟は先ほど事故にあった女性から渡された小包にそっと手を触れる。

『近くの病院に搬送されるのかな?』

 嗣子はなんとなく具合が良くないようだ。

『姉さん、こんな事故に巻き込まれるなんてね。さっきは……』

 そうして、運転席に乗ろうとしていた嗣子に向かって、総悟が声をかけようとした、その時。
 嗣子と総悟は事故に少しだけ巻き込まれただけだったはずなのに、どうしてだか嗣子が胸と背中が痛いと苦しみだしたのだ。

『……っ……』

 彼女の額には珠粒のような汗が滲んでいる。そうこうしていると息が苦しいと呻きはじめる。彼がそっと彼女の手に触れると、指先がひんやりしてじっとりと汗ばんでいた。

『姉さん?』

 残っていた救急車で帰ろうとしていた救急隊員たちも異常事態に直ちに気付いたようで、総悟と嗣子たちの元へと駆けつけてくる。
 彼らに『何か既往はないか』と問いかけられるが、総悟は姉がどうして苦しんでいるのか分からない。
 みるみる内に嗣子は顔面蒼白になっていく。
 救急隊員たちが慌てて彼女を取り囲んだ。

『橈骨触れません! 頚動脈はかろうじて……! 脈拍・呼吸数ともに速いです!』

『車内に搬送するぞ! 担架持ってこい! 酸素投与急げ!』

『アドレナリン準備! 気管挿管の準備もしろ! 急いで連絡とれ!』

 状態を問われても、総悟はうまく説明できずにいると、うっすらと意識の残る嗣子が紫色になった唇をゆっくり開いた。戦慄く手が下腹を愛おしそうに撫でる。

『……赤ちゃん』

 総悟は瞠目した。
 全身の戦慄きが止まらない。

 そうして――聡い総悟は理解したのだ。

 ……自分自身が将来的に子どもを望めないと悩んでいたから、嗣子は自身が妊娠していることを弟に告げることができなかったことに。