これまでにないぐらい仕事が捗り、いよいよ夕方を迎えた。

(総悟さんと夜に約束をしているから嬉しい。総悟さんは電話会議が終わった後に来るわけだから、何か手料理を作ろうかしら?)

 ごちそうのレシピを頭の中に浮かべる。
 獅童も食べることが出来て、総悟も美味しいと食べてもらえそうなもの。

(単純だけどハンバーグが良いかもしれない。ハンバーグを獅童に取り分けて、大人の総悟さんにはコクのあるデミグラスソースを作っておいて……材料はあったかしら? トマトとブロッコリーを添えたいから、瑞々しいものを買って帰らなきゃ……)

 桃花がウキウキと心を弾ませながら、帰り支度をしていた時。
 バタン!
 社長室のドアが勢いよく開かれた。

「総悟!」

 竹芝副社長が血相を変えて、勢いよく室内へと駆けこんでくるではないか。

「どうした、竹芝?」

 総悟が椅子から立ち上がりざま問いかける。

「嵯峨野グループが二階堂商事の株の過半数以上を買い占めたようなんです……!」

「え!?」

 声を上げたのは、総悟――ではなく桃花だった。

(株を過半数買い占めるだなんて……)

 事実上の会社の乗っ取りではないか……!
 桃花は胸騒ぎがして落ち着かない。

「このままでは、二階堂商事が……!」

 かなり慌てた調子の竹芝に対して、だがしかし総悟の反応は至極冷静なものだった。

「……とうとう動いてきたか」

 総悟は瞼を伏せて両手を組んで肘をついたまま息を吐き出す。
 彼の双眸は――二年ぶりに再会した時の底知れぬ仄暗さを想起させてきて、ゾクリとした感覚が桃花の背筋を一気に駆け上がった。
 けれども、総悟はすぐに瞳を和らげると、桃花の方へと近づいてくる。

「桃花ちゃん、あのちびっこのお迎えに行ってあげてほしい」

「ですが……」

 こんな緊急時に帰って良いものだろうか?
 何か手伝えることがあったら……そう伝えたかったが、会社の株の話など桃花が携われる範疇ではない。
 それに、こんな騒動になってしまったら、きっと今日の夜の話もなかったことになるだろう。

(夜に会えないことよりも、総悟さんのために何も出来ないのが歯がゆい)

 すると、総悟が柔らかな視線を桃花に送ってきた。


「桃花ちゃんは何も心配しなくて大丈夫。ちゃんと約束した通り、今日の夜、君と話せるのを楽しみにしてるから」


 ドクン。
 桃花の心臓が跳ね上がる。
 どう考えても緊急事態だというのに、総悟は桃花の信頼を勝ち取るためにも約束を果たそうとしてくれているようだ。
 彼の眼差しがあまりにも真摯で、「無理はしないでください」とは言える雰囲気ではなかった。
 その時、総悟が桃花の手を恭しく掴んだ。

「総悟さん――ではなく、社長」

 竹芝がいるので、呼び方に気を遣ってしまった。
 その時。
 桃花の手に総悟の顔が近づいてきたかと思うと――

「……っ……!」

 彼女の手の甲に、彼が口づけきたのだった。
 柔らかな感触が肌に直に触れてきて、桃花の心臓を早くする。
 そうして、総悟が桃花へと揺ぎ無い視線を向けた。
 

「雨が降りそうだ。帰り道には気をつけて――何があっても必ず迎えに行く」


「必ず会いに行く」ではなく「必ず迎え迎えに行く」という言葉に少々の引っ掛かりを覚えたが、有無を言わさぬ総悟の態度に、桃花はコクリと頷くしかなかった。

 そうして、桃花は後ろ髪を引かれる思いで、獅童の迎えに向かったのだった。