桃花のマンションを離れた後、総悟は車の中に戻ると座席に身体を沈めた。
 彼女に差し戻されてしまった指輪をジャケットのポケットから取り出すと、黒いケースの中に戻してそれをポケットの中に仕舞った。
 彼の長い睫毛がふるりと震え、伏し目がちになると翡翠の瞳に影が落ちる。

「ああ……さっそくプロポーズしてフラれちゃった」

 フロントガラスから差し込む月光が眩しくて、総悟は片腕で自身の両眼を覆い隠した。

「俺が子どもの父親か……まだ実感が湧かないや」

 彼女のお腹にいる間から、大きくなる子どもの姿を見ていたら違ったのだろうか?

「いいや、二年前の俺じゃあ、妊娠してる桃花ちゃんに迷惑かけただけだろうな」

 下手したら必要ないストレスを与え続けるだけの存在になっていたかもしれない。
 桃花が妊娠中に総悟のそばにいなかったからこそ……結果的には獅童がしっかり生まれてきてくれた可能性すらある。

「結局、準備してた指輪も突っ返されちゃったしね」

 ジャケットのポケットに仕舞った黒いケース。
 中に入っていたのは、二年前に彼女に渡すためにと準備していた指輪だった。

『総悟さん、ありがとうございます』

 彼女が自分の元から逃げ出す前に、ちゃんと指輪を渡せていたとしたら、きっとものすごく喜んでくれていたに違いない。
 いなくなる前に渡せさえしていたら……

「でも、所詮、俺の想像だったんだな……二年前にやってたって、同じように突き返されてたかも」

 総悟は一度だけ自嘲気味に笑ったけど、胸が詰まって苦しくなって、なんとか息を吐き出した。

「覚悟は決めたって言ったくせに、自信がないとかカッコ悪いな」

 そっと片腕を退けると、擬蟻感が駆ける指を月に向かって伸ばす。

「もう手に入らないのかな」

 ずっと彼の心を焦がし続けている存在。

 子どもの父親という有利な立場にあるはずなのに、それでも桃花に自分は選んでもらえないのだ。
 
「もう好きになってもらえないのかな」

 違う。
 相手から何かをしてもらうことを前提にしていてはダメだ。
 待ちの姿勢じゃ、本当に欲しいものは絶対に手に入らない。
 自分から動かないと何も自分の元には残ってくれない。

「そうか……俺には覚悟がなかっただけだ」

 自分なんかが彼女を幸せにできるのだろうかと……
 いつもどこかで逃げていたのは……


「桃花ちゃんじゃなくて俺だ」


 総悟は一度瞼を閉じた後、ゆっくりと開く。


「命がけで俺の子どもを産んでくれたんだ。だけど、それだけが理由じゃない。俺は君のことをずっと……」


 翡翠の瞳に、かつての強い光を取り戻していた。


「俺はもう絶対に君を逃がさない、桃花」


 総悟は、月を手中にするかのように、ぎゅっと拳を握りしめたのだった。