その時、獅童が紅葉のような小さな手で、桃花の頬をぺちぺちと叩いてきた。

「まあま、ああいい」

「ふふ、どうしたの、獅童?」

「あれ」

「まあ、綺麗な紫陽花ね」
 
 獅童の指の先には、エントランス前の花壇があり、雨に濡れた紫陽花が鮮やかに咲き誇っていた。
 ?から赤のグラデーションがとても美しくて見ているこちらも癒されるようだ。

「綺麗ね」

「まあま、これ」

 獅童の手には私のハンカチがあった。桃色に可愛らしい紫陽花の花の刺繍が施されている。

「私のハンカチと同じ柄だって言っているのね、獅童は細かいことに気がつく良い子だわ」

「えへへ」

 獅童が微笑むと、桃花の胸は幸福で満ち足りていく。

「獅童、ありがとう。まだ身体がきついんでしょう? ねんねしてて良いからね」

「……まんま……」

 桃花が抱っこしたままあやすと、獅童はとろとろと瞼を閉じて、しばらくすると寝息を立てて眠り始めた。

「さあ、行きましょう、もう残り時間は短いわ」

 会社を出てもう三十分は経過している。急がないと二時間内には戻れない。
 そうして、マンションの正面玄関を少しだけ進んだ先、見知った白い外車が停まっていることに気付いた。

(あれは……あの車は……)

 桃花の胸のざわつきが収まらない。

(この間のデートの時、総悟さんが運転していた車と同じ。たまたま一緒の車?)

 だけど、ナンバープレートの数字を見て、なんとなく一緒の数字のようだと気づく。

(まずい、どうして、総悟さんが? 私を追い掛けてきていたんだとしたら、しばらく離れないと……とりあえずマンションに戻らなきゃ……!)

 まだ総悟に話す段取りは整っていない。
 ちゃんと良い機会を得るまでは、獅童が見つからないようにしないといけないのだから。
 そうして、獅童を抱える桃花が、その場で反対側へと引き返そうとしたところ……

「ふうん、なるほどね」

 突然、背後から声が聴こえたため、桃花の身体がビクンと跳ね上がった。
 会社で過ごす時よりも低い声。
 ざわざわと全身が不安に駆られていく。

「二年前、子どもが欲しいから、俺から逃げて……他の男の子どもを産んだってわけ……?」

 桃花の獅童を抱く力がぎゅっと強くなる。幸いにも、我が子が目を覚ます様子はなくて良かった。

「それで、産んだはいいけど、男から逃げられて、金が必要になったとか?」

 桃花がゆっくり振り向くと、想像通りの人物がそこには立っていた。

「最初から俺を利用するつもりだったんだ」

 皮肉に満ち満ちた表情を浮かべる総悟が、マンションの入り口に立っていた。