桃花が心配になって後を追うと、京橋阪子はフロアにあるトイレの前でしゃがみこんで、吐いているところだった。彼女のそばにしゃがみ込むと、そっと背を擦ってやる。

「大丈夫ですか?」

「ええ、ありがとうございます。梅小路さん、ですよね」

 阪子は青褪めた表情のまま、掠れたような声音でぼそぼそと話し掛けてきた。
 突然名前を呼ばれてしまい、桃花は目を瞠った。

(知り合いじゃないと思うんだけど……)

 どうして名前を知られてしまっているのか気になってしまう。

「はい、確かに私は梅小路です」

「二階堂社長の派手な女性関係の噂は知っております。だから、きっとああいう態度を取るだろうことも。以前も私と同じように妊娠したけれど認知してもらえなかった女性がいると、知人から伺っておりますし」

「社長に、ですか?」

「ええ」

 桃花の胸がズキンと痛んだ。
 阪子の言い分だと、桃花や阪子以外にも、総悟に遊んで捨てられた女性がいるということになってしまう。
 桃花はズキズキ痛む胸をそっと手で抑え込みながら思考を巡らせた後、深呼吸をすると阪子に告げた。

「今現在、京橋様がご妊娠されている話は別として。確かに二階堂社長にはよからぬ噂もありましたが、私の知る二階堂社長は女性に対して不誠実な態度を取る男性ではございません。つかぬことをお聞きしますが、京橋様の知人というのはどちら様のことでしょうか?」

「それは……」

 言い淀む阪子を前にして、桃花の脳裏に何かが過りかける。
 すると、阪子がすっくとその場に立ち上がる。どうやら先ほどよりも顔色は良さそうだ。

「梅小路さん、背中を擦ってくださって、ありがとうございます。それでは、今日は帰ります。また出直してまいりますね」

 阪子は桃花に向かってペコリと頭を下げると、フロアのエレベーターに乗り込んで去って行くと、ショルダーバックからスマホを取り出し耳に宛がう。

「武雄さん、……」

 彼女が誰かと喋りはじめた瞬間、扉が閉まってそれ以上は内容を聞き取ることができなかった。

(今、聞き覚えがある誰かの名前を言わなかった?)

 けれども、確信が持てない。

(なんだろう、胸がざわざわする。総悟さんのことをわざと悪く言う相手……)

 ふと、とある人物の顔が頭の中に浮かんできた。

(二年前、駐車場で嵯峨野社長が総悟さんのことを悪く言っていてた)

 どことなく神経質そうな顔。優しそうな笑顔を浮かべながら、総悟にまつわる話をしていた。

(総悟さんが私の両親の事故現場にいたことを知っていたりして……)

 桃花は逸る胸を抑えながら、エレベーターは階下に向かって降りて行くのを黙って見送ったのだった。