亜矢はただ、ひたすらに走った。
目的地は学校。だけども、向かう視線はすぐ目の前に向けている。
目的の人はきっと、望めばすぐに現れるだろう。
あの人もまた、自分に目的があるのだろうから。
何の確信もない事だが、亜矢は息を切らせながら、小さく唇を開く。

「……見てるんでしょう?」

走りながら誰かに向かって、小さく言葉を投げる。
息を切らせ、走りながら。

「……魔王!魔王ッ!!」

亜矢がそう、小さく叫んだ瞬間。
亜矢は何かの変化に気付き、足を止めた。
一瞬にして、亜矢は今までとは違う景色の中に立っていた。
見覚えのない場所ではない。少し道から外れた、人通りのない裏路地だ。
そして正面を見れば、そこには予想通りオランが立っていた。
緩く締めたネクタイ。いくつかボタンの外されたワイシャツ。
相変わらず、不良っぽい教師だ。
この裏路地に亜矢を招待したのは、『取り引き』をする為の彼の計らい。

「『魔王サマ』だろうがよ」

オランはニヤリと笑った。
亜矢は荒い呼吸を整えながら、オランと少し距離を置いた正面に立つ。

「オレに何の用だぁ?」

オランは動こうとしない。本当は亜矢の目的を見抜いているのだろう。
それは、亜矢の心を見透かしているという余裕。
亜矢は強い意志を視線にこめて、オランと向き合った。

「あなたと、契約するわ」
「へえ?」

亜矢の言葉に、オランは驚きと楽しさを交えたような笑いをこぼした。

「あなたは魔界一の悪魔なんでしょう?何でも叶えてくれるのよね?」
「ああ、オレと契約すればな」

亜矢はゆっくりと歩を進めた。
決心した割には、その歩みは緩やかだ。

「……助けたい人がいるの。だから………あなたと契約する」

亜矢はオランの目の前まで辿り着くと、高い身長の彼を見上げる。
先程は契約を拒んでいた少女が、今は自らが契約を求めて自分の元へ来た。
オランにとって、これほど面白い事はない。
満足そうに笑み、オランは少し膝を曲げ、亜矢の身長に合わせて身を屈ませた。

「『契約』がどういう事か、分かってるよな?」

亜矢はそれに返さず、ただ少しだけ頬を赤らめた。
悪魔との契約は、『口付け』によって成立する。

「契約成立ってワケだな。………クク」

オランは亜矢の頬を手で触れた。
少し亜矢が反応したようだが、先程とは違い、抵抗の意志は見えない。
ただ、目を静かに閉じている。
オランはそのまま亜矢の唇に触れようとしたが、寸前で止めた。
閉じた亜矢の瞼に力が入る。
それは、『静かに』というよりは何かに耐えている。

(今まで、何度も死神に口移しされて来たんだもの。こんな事くらい…もう…)

亜矢は心で、自分自身にそう言い聞かせていた。

(……大丈夫…よ………)

これが、亜矢の決心だった。
オランと契約してコランを助けてもらおう、という。
この口付けだって、コランを助ける為の過程に過ぎないのなら、自分が犠牲になったって構わない。
オランと契約すれば、亜矢はコランの契約者ではなくなってしまう。
そうなれば、コランは魔界に連れ帰されてしまう。
それでも仕方のない事だと思った。
自分のせいで魔界に帰れなくなり、そのせいで病気になったのだとしたら。
やっぱり、コランは自分の側、人間界にいるべきではないのかもしれない。
その方が、コランの為なのだと——。
亜矢の瞼が震える。
自分を偽り続けてここに立つ、その心に耐えられなくて。
その時。
ふっと、柔らかくて暖かい感触を感じた。
唇ではなく、額に。

「?」

亜矢は驚いて目を開けた。
目の前には、鋭くも優しい眼をしたオランがいつもの笑いを浮かべていた。

「あんたの願いを叶えてやるぜ」
「え?」

亜矢は訳も分からず、キョトンとしてオランを見返す。
その仕草がおかしくて、オランは笑う。

「助けたいヤツがいるんだろ?そいつの所まで案内しな」
「え……でも、契約は?」

オランが口付けたのは、唇ではなく額であった。
これでは契約は成立してないのでは?
オランは再び亜矢に顔を寄せた。
ふいを突かれて驚いた亜矢は、反射的に身を引いた。

「魔界一のオレには端から契約なんざ必要ねえんだよ、ヒャハハハ!!」

亜矢は気が抜けてポカン、とするが、すぐに我にかえった。
じゃあ、さっき契約と称して口付けを求めて来たのは一体何!?
ただの趣味!?
そうだとしたら、ある意味、死神以上にタチが悪い悪魔である。

「さあ、どうした?案内しな」

それでも、この悪魔は亜矢の願いを聞いてくれるらしい。
悪魔にこう言うのも変だが、根は悪い人じゃないのだろう。

「……魔王、ありがとう」

亜矢は初めて、オランに向けて優しい笑顔を向けた。
それは、自然と出た笑顔と言葉。

「『魔王サマ』だっつってんだろ」

オランがそう言うまで、少しの間があった。
一瞬、亜矢の笑顔に引き込まれた…とは、オランの口からは決して出ない。
唇を重ねなかった事を、今になってちょっと後悔したオランだった。