何が目的で、この悪魔は亜矢に契約を求めるのだろうか?

「もちろん、契約すればあんたの願いは叶えてやるぜ。悪くねえだろ?」

誘うかのようにオランは言うが、そんな言葉では亜矢の心は動かせない。
亜矢は思い出した。

『オレ以外の悪魔と契約しちゃダメだぜ!』

と言った、コランの言葉を。そして、その意味を。
亜矢が他の悪魔と契約すれば、コランとの契約は自然と解除されてしまう。
そうなったら、コランは魔界に連れ戻されてしまう。

「………いや!あなたとは契約出来ないわっ!!」

亜矢は首を振るが、オランの大きな手が亜矢の顎を掴み、固定された。
どうやら、亜矢の意志は関係ないらしい。有無を言わせず、契約を結ぶ気なのだ。
亜矢は泣き出しそうな瞳に力をこめて、オランを睨む。
本当に、死神といい、この悪魔といい……人の唇を何だと思ってるの!?
亜矢の脳裏に浮かんだのは、何故かそんな事に対しての不満と怒り。
口移しの手段だとか、契約の証だとか。
キスっていうのは、もっとこう………大切なもので。
大切な人にだけしてもらいたくて。そういうものでしょう!?

(嫌…………!!)

亜矢はギュっと目を閉じる。目の前に迫るものから逃げようとして。

(助けて!)

誰に助けを叫んでいるのか、自分自身でも分からないが。
その後に、亜矢の心に浮かんで来た人の顔と、名前。
亜矢は薄く目を開ける。
自分に近付くオランの顔が、あの人の顔と重なって見える。
いつも『口移し』と称して、唇を重ねてくるアイツの顔に。

(死神………!!)

亜矢がそう、心の中で強く叫んだのと同時に。

パァアアン!!

何かが砕けるような、大きな音が響いた。
亜矢がその衝撃に驚いて目を完全に開ける。
その一瞬、亜矢の視界に——鎌を持った死神グリアの姿が映った。

「…死神……」

亜矢の口から、小さく漏れたその名前。
砕けたのは、この空間そのものだった。
気が付けば、元の校舎。元の町並み。元の景色に戻っていた。
死神の鎌が、オランの作り出した空間を切り裂いて2人を元の世界へと戻したのである。

「ちっ……」

オランが小さく舌打ちをした。
亜矢とオランの前に立つグリア。その手にはすでに鎌はない。

「教師が生徒に手ぇ出してんじゃねえよ」

そうグリアが睨み付けたのと同時に、亜矢はグリアの方へと駆け寄った。
すでに、亜矢にはオランの事が見えてないようだった。

「死神、大変なのっ…!コランくんがっ!!」

亜矢は死神にすがるようにして訴える。
いつも強気で反発的な亜矢からは考えられないその姿。
グリアもさすがに少し驚いたようだが、あくまで冷静だ。

「そういうワケでな。今日はサボるぜ、センセイ」

オランに向かって言うと、亜矢と共に校門の外へと出て行った。

「……けっ、死神ごときが……」

オランは2人を追う事も見送る事もなく、吐き捨てるように言う。
だが、何かの気配を感じ、オランが校舎の方に視線を向けると。
目の前に、1人の少年が立っていた。
水色の髪を風になびかせ、いつからそこに立っていたのか。
その少年からは一切の感情というものが感じられない。

「なんだ、てめえは」

オランが不機嫌そうに言う。

「……ボクの名はリョウ」

リョウの口から出される言葉も、淡々として感情というものがない。

「名前を聞いてんじゃねえよ」

だが、オランはリョウを見て何かに気付き、笑いを含んだ口調になる。

「天使ってのは、羽根が白いモンだと思っていたがよ、片方が黒いヤツなんて初めて見たぜ。面白えなぁ?」

「!!」

感情を表さなかったリョウの瞳が僅かに揺れる。
オランは、リョウの正体が天使だという事を見抜いた。
それだけじゃない。リョウの羽根が見えるのだ。
リョウは普段、自分の羽根を自らの意志で隠している。
亜矢にも、その羽根を見せた事はない。
リョウの羽根は、何かの原因によって右側の片方の羽根が黒く染まっているのだ。
だが、リョウもオランの正体に気付いていた。

「魔界の王が、なぜ人間界に?」

オランは、そのリョウの問いに答える訳でもなく、言葉を続ける。

「大変だよなぁ、天界に仕える天使も」
「……どういう意味?」
「知ってんだよ、お前が仕える天界の王を。1つの世界を統べる王としてな、ちょっとした顔見知りだ」

リョウの言葉が詰まる。
何も返せない所からすると、オランの言う事に偽りはないのだろう。

「お前ら天界のする事など、オレには関係ねえ。興味もねえよ」

オランは校舎に向かって歩き出した。

「オレがお前らの邪魔をするとでも思ったか?クク……」

リョウは顔を俯かせた。だんだんと小さく遠ざかっていくオランの笑い声を背中に受けながら。

(魔王オラン…彼までも…)

リョウは心の中で呟いた。
亜矢の『命』、それに引き寄せられるようにして。
ついに、魔王までもが現れた。
きっと、理由は違っても皆、目的は同じなのだろう。
亜矢を手に入れる為に。そして、亜矢の魂を手に入れる為に。

(そして、ボクも—………)

未だ、隠されたままの真実と悲しみを胸に秘め、リョウは空を見上げた。