星空の下で、ロマンチックにキスをした。

「はぁ」

海へ行ってから、もうすぐ一週間が経とうとしていた。巧は相変わらず口を開けば意地悪ばかり。あのキスはまるでなかったことのよう。

けれどもたしかに変わったこともある。彼の領域に受け入れてくれたような、優しく包み込んでくれるような、温かい雰囲気を感じる。巧の彼女はこんなふうに愛されるのだろうかと、陽菜は時々愛しさで胸がいっぱいになる。好きだと言ったわけではないし、言われたわけでもないのだけれど。

「はぁ」
「ちょっと、陽菜?」
「はぁ」
「陽菜!」
「あ、茜」
「どうしたの?最近おかしいよ」
「うん。ごめん」

唯一、アルバイト中は巧がすぐ側にいないので、物思いに耽っていられる。普段はお互いくっつけば売り言葉に買い言葉で、気まずいことはおろか色恋の空気さえない。立ち読み客の隣に立ち、雑誌や漫画を眺める彼の後ろ姿に陽菜は思いを馳せた。

「はぁ」
「陽菜、恋してるね」
「えっ」
「バレバレだよ」

陽菜の顔には、恋していますと書いてあるのだと茜は言う。クスクスと笑ってその頬を軽く突ついた。陽菜は突つかれた頬を膨らましてみるが、前にも巧に同じことを言われた過去があって、ため息があふれる。

「私って、そんなにわかりやすい?」
「それだけじゃなくて。最近の陽菜、すごく可愛い」
「えぇっ!?」
「恋して綺麗になったっていうか」
「そんなことないよ」
「……でも、私には言えない人?」

どう答えたら良いのか、陽菜は言葉に詰まる。しどろもどろしていると、茜が寂しそうに俯いた。

「もしかして、佐野先輩とか?」
「え、違う違う」
「ほんと?私に遠慮しなくていいからね?」
「ほんとに違うってば」

陽菜が茜を応援するように、茜だって陽菜のことを気に止めてくれる。それを無下にはできなくて、巧の背中を見つめながら、少しだけ打ち明けた。

「あのね、凄く大人の人なの」
「うん」
「格好よくて、余裕があって、意地悪だけど本当は優しくて」
「うん」
「どんな時も、守ってくれるの」
「素敵な人だね」
「でも私なんて子供だから、いつもからかわれちゃう」
「片思いなの?」
「多分、その人も少しは思ってくれてると思う」

陽菜は巧が、人を弄んで、簡単にキスしたりするような人ではないと思う。

「ただ、届かない存在っていうか」

いろいろなことを教えてくれた人。恋をすること、人を愛すること、想い合っていたとしても、どうにもならない恋があること。

「諦めるの?」
「え?」
「私なんて佐野先輩に見向きもされないよ?それでも好きだから、なにもしないで諦めたくないから、がんばるんだよ」
「茜・・・・・・」
「おもいっきり恋しなよ!傷ついてボロボロになっても、私がいるでしょ?」
「うん、そうだよね。がんばる」

大切な友達がいるから、強くなれる。大好きな人だから、もっと気持ちがほしくなる。巧の背中をもう一度見て、陽菜は茜に振り向き大きく頷いた。


アルバイトが終わって外へ出ると、聞き慣れた声が降ってきた。

「おう、お疲れ」

まだ眩しい日差しに一瞬目をつぶったが、声の主はすぐにわかった。巧はいつも決まって陽菜が帰る頃には、腕を組みガードレールに腰かけて待っている。偉そうに腕を組むのは、最近わかった彼の癖。

「お待たせしました!」

自動ドアの向こうに巧がいるのが嬉しくて、時間が来ると急いで着替えて飛び出した。笑顔で息を切らす陽菜を、巧は仕方なさそうな顔で迎える。それからポンと頭の上に手をかざしてくれて、それが歩き出す合図。感覚なんてなくても、幸せは感じられた。

「今日は寄り道しましょう」
「どこへ?」
「ちょうど三時だし、おやつです。茜に美味しいジェラート屋さんを教えてもらったんですよ」
「ジェラート?」
「この時期ピッタリの冷たい……、しまった!」
「なんだ!?」
「あーんができない!」
「はぁ?」
「一口あーんは恋人の定番だと教わりました!」
「は?」

陽菜は頭を抱えた。アルバイト中に教わった、恋愛初心者の陽菜にピッタリの愛情表現方法。『あーん』して食べさせてあげる、を実践しようと思っていたのだが、巧にとっては論外だった。

「お前、俺にしたことあるじゃん」
「え、いつですか?」
「え、なんでもない」

俺がバカだったと肩を落とす巧とともに、ふたりでしょんぼりしてショップへ向かった。そんな憂鬱も、カップに入ったクリーム色のジェラートをスプーンで掬う頃には一転。陽菜は甘美のため息をこぼしながら、一口、また一口と舌鼓をうつ。

「さっきまで落ち込んでなかったっけ」
「巧さんの分も味わってます」
「あっそう。ところで他にはどんなこと教わったの?」
「はい?」
「あーんだけじゃないんだろ?」
「うっ、まぁ」
「やってみなよ」
「無理です」
「あぁ、なるほど」

何か納得した様子で黒い笑みを作る。そうして巧の声は周りには聞こえないのにも関わらず、陽菜だけに聞こえるよう耳もとへ顔を寄せた。

「な、なんですか」
「どうせなら俺が喜ぶようなことしてほしいなぁ」
「ひっ!」

近距離でくすぐる巧の声に、身体の中がドクンと跳ね上がる。食べようとしていたジェラートがわずかに溶けて、硬直した陽菜の胸もとに垂れた。

「ひぎゃ!」
「なんて色気のない声」
「うるさいですよ。なにするんですか!」

当然のように胸もとに唇を寄せる巧に驚き、羞恥心から咄嗟に隠す。巧は隠されたそこにチッと舌打ちをした。

「人前でなんてことを」
「人前じゃなきゃいいの?」
「よくないです!」
「一般的な恋人じゃなくて、俺の定番を教えてやろうと思ったのに」
「変態」
「ま、期待してるからね?がんばって」

とても頑張れる気がせず、思いっきり顔を振った。陽菜もいつかできることなら、巧みたいに黒い笑い方をしてみたいと思う。しかし愛情表現なんて、何をしても墓穴を掘るだけで終わってしまいそうだった。


ジェラートの余韻に浸りつつも、夕方帰宅した陽菜は颯爽とエプロンを身につける。髪をシュシュでひとつに束ねて、腕を捲った。

「なにしてんの?」
「夕飯作るんですよ」
「めずらしい。夕立でもくるんじゃね?」
「失礼ですから」
「はっ。もしかして恋人のお楽しみか」
「違います!」
「さぁ脱げ。恥じらいつつ脱げ」
「変態、セクハラ!」

格好はともかく、後ろからぎゅっとされたら嬉しいかもと妄想する。ただしそれだけでは終わらなそうだと、陽菜は背筋を奮わせた。

「町内会の集まりがあって、夜お母さんがいないんですよ」
「なるほど」
「部屋は汚くても料理くらいできますからね?」
「はいはい。俺は部屋が綺麗でも、料理はできませんからね」
「あはは。足して二で割ればちょうど良いですね」

笑いながら、慣れた手つきで野菜を切っていく。トントンとリズミカルな音が響く台所で、巧は静かにつぶやいた。

「足して二で割れば、か」
「なにか言いました?」
「いや、ガキはお気楽でいいなって」
「子供扱いばかりしないでくださいよ。巧さんってば、日常的に私のことからかってますよね」
「だって大人の対応しても、お前の許容範囲外だろ」
「それはそうなんですけど」
「君は面白おかしく、俺に可愛がられてなさい」

台所をフラフラしていた巧が気づくと後ろにいて、陽菜が卵を掻き混ぜる作業台に手をついてくる。巧の言葉と距離が、いきなり妙に近くて身体が熱くなった。なんだか照れて俯いたまま、夕飯作りの続きに夢中になるしかなかった。

野菜炒めとコンソメスープ、そしてネギの入った卵焼き。陽菜の向かいには巧が座っている。母はいないが、こんな幸せな夕食に感謝した。陽菜は幼い頃から母が忙しく、ひとりで食事をとることが多かった。それが普通だったから疑問にも思わなかったが、毎日誰かと他愛ない会話をしながら食卓を囲むことの素晴らしさを、巧がいて初めて知った。

「巧さん、あーん」
「え」
「と見せかけて、ぱくっ」
「ガキ」
「ん、美味しくできました」
「よかったね」
「巧さん」
「なんだよ」
「ありがとうございます」
「急になに」
「大人にはわからない幸せです」
「はぁ?」

陽菜は笑みを潜め、卵焼きを頬張った。


夜も更けて部屋の窓から入り込んだ夜風が、お風呂上がりの火照った身体に気持ちいい。コップ一杯の麦茶を流し込み恒例の読書タイムに入る。眠る前に本を開くのが習慣になってから、大分読み進めた物語。

「あ、もう少しですね」

陽菜は栞を挟んで一息ついた。ベッドに隣同士で座ることに慣れてきて、寄り添うことが安心するようにもなった。

「私、一日の中でこの時間が一番好きです」
「え?」
「巧さんと一緒に本を読む時間が、大好きです」

陽菜は無邪気に花のように笑う。巧があまりにも目を丸くして驚くから、陽菜はおかしかった。なぜならふたりが一緒に過ごしてきた時間がここにあるのだ。形になって見ると、こんなに一緒にいたんだなと嬉しくなった。

もう少しで読み終わる物語。幸せに浸り、残りページをパラパラと見やって陽菜は初めて気づく。気づいた陽菜はドサッと本を落としてしまった。

「どうした?」
「あ、あの。ごめんなさい。大切な本を」
「いいけど、顔真っ青だぞ」
「えっ」
「具合悪いの?」

陽菜は首を振って巧の視線から逃れる。気づいてしまった。たくさんの時を過ごしたということは、一緒にいられる時間は後わずかだということ。漠然としていた別れの時が、迫っているということ。幸せすぎて、忘れていた。いや、知らぬ間に心を反らしていた。

本を落としたのと同時に真っ青になった陽菜が何を思ったのか、巧は月の光が差し込む真夜中の静かな部屋で知ることになる。寝言とともにこぼされた一言に、どうしようもなく切なくなった。

「巧さん……」
「うん?」

(なんだ、寝言か)

ドキリとして目を見張ったが、相変わらず規則正しい寝息を立てている。陽菜が眠るベッドに腰かけて顔を覗く。巧は自分の名前を呼ばれたことが、柄にもなく嬉しくて、しばらく愛おしげに見つめていた。

「……行かないで」

突然、苦しそうに眉を寄せ身をよじる。閉じた瞼の下から一筋の涙が頬を伝った。巧は拭えるわけもなく、呆然と乾くのを待つしかなかった。これ以上、無理なのかもしれないと悟る。誤魔化していても、辛いだけなのはわかっていた。

青白い月を睨みながら、巧はその時を考えた。


別れる日を意識してからというもの、お互いどことなく距離を感じるようになったと陽菜は思う。言葉を交わせばいつも通りだから、陽菜がそう思っているだけなのかもしれないとも思うのだが、巧もたまに考え込んでいることがあり、一緒にいるのにすれ違いのような毎日。

ふたりの時間に空白なんてつくりたくない。アルバイトなんてしている場合ではないと思うも、今日も自動ドアが開くたび、腑抜けた声で挨拶をしては、商品を並べ直す日々。ため息ばかりが出た。

「相沢さん、なんか元気ないね」
「えっ?」
「なにか悩みごと?」
「佐野先輩、すみません!ちゃんと仕事します!」
「いや、そうじゃなくて。悩んでいるなら相談にのるよ」
「ありがとうございます、大丈夫です」
「そっか」

ここ数日、巧を思うと知らないうちに涙があふれてきて、自分の気持ちをどうしたらよいかわからなかった。無意識に巧の背中ばかり追ってしまう。ぐすんと鼻をすすり目尻を拭った。

「ねぇ、相沢さん」
「すみません」
「今日上がる時間一緒だよね?送るよ」
「あ、大丈夫ですよ」
「そう言わないで、送らせて」
「え?」
「じゃ、後でね」
「あの?ちょっと、佐野先輩……」

佐野は陽菜の返答を待たずにレジカウンターへ向かってしまう。今日は五時までだから遅い時間でもないのにと不思議に思った。加えて、いつもと違って少し強引な佐野に戸惑い首を傾げると、立ち読みしていた巧と目が合う。

「巧さん、どうしたら」
「なんで俺に聞くの」
「え?」
「自分のことだろ」
「でも」
「ひとりでフラフラ帰るよりは安全だと思うけどね」
「ひとりって」
「俺、外出てるな」
「待っ、……行っちゃった」

巧は手のひらをポンと陽菜の頭にかざして、そのまま店内からいなくなってしまう。いつもの巧なら浮気だとか言ってからかうのに、なんだか冷たい目をしていた。

しばらくして五時になり、茜の元気な声が響く。

「佐野先輩!お疲れ様です」
「お疲れ様、がんばってね」
「はいっ!」
帰り際にニヤリと笑う茜に腕で突つかれる。
「陽菜、年上の彼とはどう?うまくいってる?」
「うん、まぁ」
「元気ないね。ケンカでもした?」
「どうなんだろう。ちょっとだけ」
「もう!ちゃんと仲直りしなさいよ」
「ありがと、お疲れ様」

(仲直り、か)

話し合おうにも、巧の前で泣いてしまったら、彼を困らせるだけだと陽菜は目を伏せる。悩みながらもアルバイトが終わり、そそくさと店を出る陽菜を佐野が呼び止めた。

「相沢さん、待って」
「佐野先輩、私、本当に大丈夫なので。失礼します」

佐野の気遣いはありがたいと思うが、好きな人が、巧がいるのに、誰か他の男の人と歩きたくはない。それが本当の気持ちだった。巧のところへ行かなくてはと店を出る。すると佐野に腕を取られた。

「相沢さん!」
「佐野先輩、私急いでるんです」
「相沢さんが好きなんだ」
「え?」
「いつも笑顔で正直で、一生懸命な相沢さんが好きなんだ」
「佐野先輩……」
「僕は、悲しませたりしないよ」
「あっ」

(巧さん!)

いつものガードレールに腰かけて、こちらを見ている巧と目が合う。見られていたことに罪悪感を覚え、何か取り繕おうと必死に脳内を回転させた。

「俺消えてるから、ごゆっくり」
「巧さん待って!」
「こら、逃げるな。佐野はずっとお前のこと好きだったんだぞ。ないがしろな態度とるなよ」
「え?」
「お前が気づかなかっただけ。いつも見てたよ」
「そんな」
「俺はいないものとして考えて、ちゃんと返事しなさい」

巧はそう言って優しく笑うと、どこかへ消えてしまった。いつか佐野の友達が言っていた言葉が頭をよぎる。まさか自分のことだったなんて信じられなかった。

「相沢さん、僕は本気だよ」
「佐野先輩」
「ずっと前から、相沢さんに振り向いてほしかった」
「私……」

ーーカシャン!

「あ、茜!」

何か落ちた音がして見ると、茜が瞳を大きく見開いて立っていた。ポロッと涙をこぼして後ずさり、店内ではないどこかへ走っていく。陽菜は咄嗟に追いかけようとしたが、佐野によって阻まれた。

そして佐野も辛そうに唇を噛み俯く。こんな佐野を初めて見た。優しくて気さくで、頼りになる先輩で、茜の好きな人。陽菜は息をのんだ。

ただ、巧の言ったことが胸に刺さる。俺はいないものとして考えて。いない、なんて、そんなふうには考えられるはずがなかった。どんなに傷ついても、悲しい結末でも。叶うはずのない気持ちだとしても。

「佐野先輩、私は」

ごめんなさいと、ありがとうを込めて、陽菜は佐野の目を見た。

「私はーー」

「うん。ありがとう」

陽菜は佐野に気持ちを伝えると、一目散に茜の走って行ったほうへ駆け出す。空にどんよりと迫る黒い雲のせいで、まだ夕方なのに辺りは薄暗い。陽菜の感情のように悶々としていた。
しばらく走ると、河川敷にひとりで膝を抱える茜を見つけた。

「茜っ!」
「……陽菜」
「私っ」
「いいの。気づいてたから」
「え?」
「陽菜が鈍いだけだよ」

茜は赤い目で、それでも笑おうとする。陽菜が気にすることではないと言うので、胸が痛くしめつけられた。

「私が気づくとね、佐野先輩の視線の先にはいつも陽菜がいた」
「茜……」
「それでも良いと思ってたの。ただ、実際見ちゃうと堪えられなかった」
「ごめん」
「なんで陽菜が謝るの?好きになるのは、その人の自由だもん。仕方ないよ」

陽菜は何も言えずに、茜の隣に座った。親友がずっと苦しんでいたことを、わかってあげられなかった自分が悔しい。自分のことばかりで、巧との時間に浮かれてばかりいた、そんな自分に腹が立った。

「はっきり振られたようなものなのに、まだ好きなんだよね。一緒にいられたら幸せだろうなって考えちゃう」
「うん」

(一緒にいられたら、幸せ……)

「陽菜が羨ましいな」

茜の言葉を繰り返して、陽菜は涙を溜める。震えながら、小さな声でつぶやいた。

「ダメなの」
「陽菜?」
「叶わない」
「え?」
「きっともうすぐ、遠くへ行っちゃうの」
「どういうこと?」
「絶対、離れ離れになっちゃうの」

そう、例えどんなにお互いを想い合っていても、ふたりが幸せになることはない。遠くない未来、お別れをしなくてはならない。みるみるうちに陽菜の目の前は歪んでいった。

「な、なによそれ」
「茜?なんで茜が泣くの」
「友達だからだよ」

今にも降り出しそうな雨雲の下。ふたりは気が済むまでたくさん泣いた。

「あーあ。いきなりバイト抜けて、店長に怒られるな」
「一緒に謝るよ?」
「陽菜は、会いに行きなよ」
「え?」
「私なら、好きな人と一分一秒でも多く一緒にいたいと思うよ」
「うん」
「陽菜の思いを伝えなきゃ!」
「うん!」

陽菜は茜に背中を押されると同時に、勢いよく駆け出した。

(巧さん、どこ行ったんだろう?)

空からはポツポツと雨が降り始める。それは次第に髪や服を濡らしていった。今までひとりでいなくなることなんてなかったから、陽菜には見当がつかない。このまま、会えなくなってしまうような、嫌な予感がした。

ドクドクと身体を打つ心拍が早くなる。どこへ行けば会えるのか、確信もなく走り回った。いつの間にか土砂降りになった夕立は、まるで巧に巡り会うことを阻んでいるみたいだ。そもそも巡り合って、こんな関係になったことすら奇跡に近い。

「私が道路に飛び出さなかったら、巧さんとはこんなふうに……」

はっとして、陽菜は目の前が見えなくなりそうな強い雨をかき分けて走った。人通りのわずかに減った道を、バシャバシャと飛沫を上げて走る。行き着く場所はひとつしかなかった。

「見つけた!」

そこは、ふたりの始まりの場所。陽菜が足止めされた横断歩道の向こう側で、信号待ちをする人混みに紛れて佇む彼がいた。

色とりどりの傘が目立つその中で、雨も人も巧を避けている。それが無性に寂しくて、私はあなたを知っているということを伝えたかった。目の前を行き交う車がもどかしくて交互に追っていると、あの時の記憶が脳裏をよぎる。

あの朝、長谷川先生はあそこに立っていた。陽菜は割り込んで巧の隣に立つ。初めて間近で言葉を交わして、うわ本当にカッコイイなって少しだけ照れて。馬鹿なことに信号が変わると同時に飛び出した。

「巧さんっ!」

いたたまれなくなって、横断歩道越しに大声で叫んだ。陽菜の声に驚いた顔をした巧は、すぐに嘲笑い淡々と言葉を吐く。

「いつまで幽霊追いかけてんだよ」
「え?」
「いい加減気づけよな。子守も飽きたわ」
「そんな」
「だから幽霊に呪われるんだよ」
「呪うって、そんなこと」
「俺のこと好きになれば一生後悔して引きずるだろ?最高の呪いじゃん」
「なんで……」

巧は、軽蔑したような冷たい目をしていた。人を試すような、うかつに近づくことを許さないような冷たい目。それは幽霊になった巧が陽菜の前に現れた時を彷彿とさせた。

陽菜は許せなかった。自分自身が許せなかった。巧の支えになりたかったのに、こんなことを言わせてしまった自分が憎い。優しい彼の本心は、忘れないでほしいと、そう伝えたかっただけなのを知っている。

ずぶ濡れになった身体は重く、一瞬足がすくむ。それを見て、そのままくるりと後ろを向き、立ち去ろうとする巧を慌てて追いかけた。

ーーピピーッ!

クラクションが鳴り響く。道路に飛び出そうとした陽菜は、驚いて立ち止まった。巧も同じだったようで息を吐くのがわかる。そうしてまた、背中を向けた。

「巧さんこそ、逃げるなぁぁ!」

陽菜には逃げるなと言っておいて、自分は逃げるのかと陽菜はなり振り構わず叫んだ。冷たくすれば欺けると思ったのだろうか。公衆の面前だろうが、相手が見えなかろうが、陽菜にはどうだっていい。ただ頭にきて、雨なんかにかき消されないように喉を振り絞った。

信号が変わるまでに荒い息を整える。興奮したせいか身体が熱い。次々に滴る雨の雫を拭いながら、青い光を捉えるとゆっくりと横断歩道を渡った。

「バカな奴」

巧は陽菜が渡り切るのを、心憂い眼差しで見ていた。彼の前に立つと余計、沸々と火照りを感じる。自分は巧が好きだと再確認した。別れる日が怖い。愛に溺れるのが怖い。でもなによりも、拒絶されるのが怖い。

傷つくのなら深く傷ついてしまえばいいと陽菜は思った。いつか戒めになるように、残された時間を惜しまず巧に捧げたかった。

「私、巧さんじゃないとダメです。私に向き合ってください」

巧は、振り切っても突き飛ばしても、真っすぐな瞳で追いかけて来る陽菜が怖かった。自分の心の醜いところまで見透かされているのではないかと、向き合うことが怖くて逃げた。知れば知るほど好きになる。後戻りなんてできなくなっていく。ずぶ濡れになって対峙した彼女は、やたら頬を赤らめて進撃だった。

「ずっと怖くて聞けなかったことがあります」
「なに?」
「私を恨んでいますか?」
「もし、恨んでいると言ったら?」
「ここで巧さんに救われたから」
「飛び出すとでも?」
「巧さんが望むなら」
「死にたくないって、言ってなかったっけ?」
「今は、それに勝る気持ちがあります」
「はぁ、最悪」

頼むから、そんなに自分を責めないでくれと巧は腰を折る。しかし陽菜はそれを許さなかった。

「教えてください!」
「そんなこと、俺が望むと思う?恨むどころか、むしろ感謝してる」

救われていたのは巧自身だった。陽菜と出会って、生きていた頃の自分の蟠りがなくなった。家族の温かさを久しぶりに感じた。こんな自分が本気で人を好きになれるなんて思いもしなかった。

「感謝?」

意味のわからない陽菜は訝しげに首を傾げる。巧はそれでいいと思った。なぜなら今は、大切だと思う人のために何ひとつできない自分の愚かさを呪っている。一緒にいると惨めになるから、いっそのこと自分なんていらないと言ってほしかった。

「お前はどうしたい?」
「許される限り、あなたと一緒にいたいです」
「ごめん。今のは俺がずるかった」
「え?」

答えを委ねてまた逃げた。それなのに、陽菜は真っ直ぐで強かった。

「俺は君といたい」

そう言って巧が笑うと、陽菜の険しい表情は簡単に崩れた。その笑顔は、居心地が良すぎて酷く辛い。

「お前、バカだよな」
「え」
「俺は、もっとバカだけど」

もうすぐ訪れる最後の瞬間がくるまで、人を愛することの幸せに溺れたい。

「巧さん、帰りましょう?」

おずおずと自信なげに手を差し出した陽菜が可愛らしくて、さっきまでの覇気はなんだったのかと笑いが込み上げる。

「なんで笑うんですか」
「はいはい」

出された手に手を重ねると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「雨、止みませんね」
「さっさと帰るか。さすがにバカでも風邪ひくし」
「バカって!もう」

反論しながらもニヤニヤと緩みきった顔が、時折幸せを噛みしめるかのように巧へと向けられる。呆れ半分にも、巧もいちいち答えてしまうのだった。


家に着いた途端に、靴を脱ぐ間もなく陽菜の身体から力が抜けた。倒れる瞬間、巧が咄嗟に支えたつもりの身体は鈍い音を立てて崩れ落ちる。

「おい、大丈夫か!?」
「だい、じょうぶ、です」

瞼を閉じたままの陽菜は、苦しそうに肩で息をしていた。生きていれば、抱きとめることも抱え上げることも容易にできるのに、人を呼ぶことも、誰かに気づいてもらうこともできない。

「情けねー」

たしかに最近、顔色が悪かった。大雨に打ちつけられて限界だったのだろう。妙にずっと火照っていたし、息も荒かった。もっと早く気づけたはずなのにと巧は自責する。

「ごめん」

ため息とともに座り込み、邪魔な前髪をかき上げた。