「デートしようか」

陽菜は花火大会以降、バイト以外は家で過ごすことが多くなっていた。巧と気兼ねなく話せるしと理由をつけたが、やはり外へ出ることへの抵抗があったから。せっかく取れた包帯も綺麗になってきた傷痕も、それが巻きついていた時のほうがひょいひょい出かけていたなと巧はため息をつく。

「よし。デートしよう」
「えぇ?」
「巧さんの彼女なんだろ」
「あ、はい!」

うきうきとタンスを引き出し、やはりデートはピンクのふりふりか、スカートかとぽいぽい服を投げる。

(もしかして、好みの服?)

「巧さん、デートってなにを着ればいいんですか?」
「そんなのもちろん、はだ」
「裸以外でお願いします」
「君も言うようになったね」
「慣れてきました」

気を取り直してコホンと咳払いをした巧は、まるでどうでもいいことのように言った。

「なんでもいいんじゃね?」
「え、好みの服とかじゃないんですか?」
「はたして俺の好みをお前が着こなせるかどうか」

指でアングルを作って覗く巧の目に、陽菜はどう写るのか。やっぱり子供なんだろうなとがっかりしていると、巧はクスリと笑った。

「冗談。自分に似合う服を着るのが一番可愛いでしょ」
「あ、はい!」

選んだ服を身体に当てる陽菜を見て満足げに頷いた。

レモン色のノースリーブのブラウスに、白いデニムスカート。陽菜の持っている中で、一番ヒールの高いサンダル。ほんのりメイクもした。マカロンピンクのグロスの甘さにルンとヒールを踊らせる。きっと少しだけ彼に近づけたはずだ。恋人ごっこなのは悲しいけれど、楽しそうに笑ってくれるだけで幸せだった。

控え目に踏み出した外界は、じりじりとふたりを蝕むが、今はそれさえも心地良い。初夏の匂いに耳を澄ませれば、緑の揺れる音が聞こえる。夏のハーモニーと真っ青な空に感謝した。

「うーん。どこ行くかな」
「私!初めてのデートは水族館に行くのが憧れで!」
「よし。じゃあ水族館以外に行こう」
「ひどい。初デートなのに、意地悪するんですね」

陽菜には初デートの憧れがあった。水族館に行って、記念にお揃いのキーホルダーを買うこと。帰りにはお洒落なカフェへ寄って、別れ際に初めてのキス。頬を染めながら『またね』と、名残惜しさに次の約束をする。巧と叶えたかったが、彼の意地悪は決定事項。仕方なく視線をさ迷わせ第二候補を告げた。


移り行く景色に心を踊らせて、電車を乗り継ぎ数時間。初めて訪れる地を踏みしめ、鼻歌まじりにスキップをした。

ようやく到着した目的地は海。水族館を却下され絞り出した苦肉の策だった。きっかけはアルバイト中に茜とした会話。

ーー「陽菜ってば最近付き合い悪いよぉ」
「ごめん、ちょっといろいろあって」
「連絡もまともに取れないし、なにしてるの?」
「えーと、別に」
「彼氏でもできた?」
「えっ!」
「え、うそ!?教えてくれてもいいじゃん」
「ご、誤解だよ」
「あやしー」

なかなか鋭い茜に陽菜はたじろぐ。二十四時間一緒の巧は、陽菜の優先順位の中でやっぱり上位だから、つい茜をないがしろにしてしまっていた。

「茜こそ、佐野先輩とどう?」
「うーん。水着で悩殺とか考えてる」
「ふふっ」
「ちょっと笑わないでよ。真剣なんだからね」
「ごめんごめん」
「夕暮れの砂浜でロマンチックにキスしたいなぁ」
「えぇっ」
「素敵じゃない?」

佐野に好きな人がいることを花火大会の時に聞いてしまった陽菜。何かできるわけではないけれど、応援していることに変わりはないから、こうしてまた恋の話に華を咲かせた。

「ふふ。水着で悩殺かぁ」

ぽつりとこぼすと、巧がすかさず口を挟む。

「お前はこの間のアレがいいんじゃね?」
「む、無理です」

先日ショーウィンドー越しに見た水着を思い出し、頬を染める。

「やだもう。そもそも悩殺なんて、とても」
「悩殺がどうしたの?」
「茜!?」
「やっぱり気になる人いるんでしょ」

陽菜は顔を大きく左右に振ったが、茜は信じていないよう。

「彼氏できたらちゃんと報告してよね」
「うん」

(彼氏、か……)

期間限定の恋人、先生で、しかも幽霊。たまに夢でも見ているのではないかと思う時がある。でも恋をしているのは事実。誰にも言えない陽菜の秘密ーー


潮風に煽られて空を仰ぐ。目の前に広がるマリンブルーの大きな海と、太陽に輝く白い砂浜のコントラスト。歩くたびにサクサクと砂の音がした。平日なので海水浴客もまばらだ。

「穴場ですね!さすが私」
「さすが高校生はリサーチが得意だな!」

電車には長時間揺られていたけれど、駅から歩いて行ける距離の海岸。なるべくゆっくり寛げる落ち着いた雰囲気の場所。もちろん砂浜も海も綺麗なのは外せない。水族館へいくつもりで準備した、いつもより少し大きめのバッグには、イルカの水しぶき避けのレジャーシート、タオルと日焼け止めが入っていて結果オーライ。

巧はいつも通りの白いシャツだけれど、青い景色に映えて魅力的だった。見惚れていることに気づかれる前に視線を反らす。

「うわぁ、砂がサラサラですよ」

手のひらにひと掬いし、風に流す。我慢できずにサンダルを脱ぎ捨てて裸足になると、熱を持った砂が足の指の間まで入ってきた。

「あっ、熱い、熱い!」
「あたりまえだろ」

海水を目指し、潮風に向かって走る。左足、右足と熱に負ける前に砂を蹴った。

「水着持ってくれば良かったのに」
「だって、水族館だと思ってたし。そもそも絵的にまずいと思いません?」
「まぁ、残念な人だよな」

他の人からは、ひとりで海に入ってはしゃいでいるようにしか見えないのだから。それに正直、陽菜は巧の前で水着を着る勇気はなかった。

「水着とか、恥ずかしいです」
「お前は悩殺どうこうより、純愛タイプだもんな」
「そうですね」
「純粋、純一、純情、純直……」
「ところどころ意味がわからないんですけど」
「羨ましいくらい単純な奴ってことだ」
「結局はバカにしてますね」

ケラケラと笑う巧が頭にきて、陽菜はたどり着いた海水へ手を突っ込んだ。そうして海を拾って飛沫を投げる。

「わっ、反則!俺やり返せねーのに」
「どうせ濡れないんだからいいじゃないですか」
「反射的に嫌なの」
「問答無用です」

両手を盾にして逃げる巧に、容赦のない一方的な水の掛け合い。当たるわけなどないのに、片目を閉じて身を屈めているところがおかしくて楽しくて、しばらくふたりで笑いあった。

逃げる巧に近づこうと前に出た途端、陽菜は波にバランスを取られる。よろけた拍子にお尻をついてしまった。

「きゃぁっ!?」
「ざまーみろ」
「うえー、しょっぱい」
「ちょっと休憩だな」
「はーい」

レジャーシートを広げ、駅の自動販売機で買ったミネラルウォーターで喉を潤す。潮が乾いてべたつくまで海の香りを楽しんだ。日焼け止めを塗り直していると、隣から悲痛の声が聞こえる。

「うわー、それ男の醍醐味」
「変態。それにオイルでは?」
「なんでもいいんだよ。ドキドキできれば!」
「セクハラ」

チェッと舌打ちをした巧が砂浜にごろんと横になる。陽菜も隣に寝転がったら、ちょうど巧の腕を枕にした形になってしまい、慌てて身体を起こした。

「ご、ごめんなさい」
「んー、いいんじゃない?」

巧は眩しそうに薄目を開けてまた閉じる。許可を得てドキドキしながら静かに巧の腕に頭を戻すと、優しい眼差しの彼と目が合った。巧も陽菜を大切に思ってくれているなんて、自惚れだろうか。好きが言葉になってあふれてしまいそうだった。

「ずーっと巧さんと遊んでいたいです」

人を愛しく思うって、こんなにも幸せなんだと陽菜は実感する。ころんと巧のほうへ体勢を変えて、斜め上の巧を見つめ上げた。

「それ反則だろ」

陽菜の上目使いに珍しくうろたえて、巧は片手で顔を覆う。陽菜には何が反則なのかわからず、問い詰めようとしたところで男性の声が響いた。

「久しぶりー!」

突然、見知らぬ人に声をかけられ驚く。陽菜よりも年上に見える男性がふたり。その顔に覚えはなく混乱した。

「え?」
「俺だよ、覚えてない?」
「ごめんなさい、人違いじゃないですか?」

陽菜はどうしても心当たりがなく頭を下げるが、相手はあまり気にしていないよう。

「せっかくだし、一緒しない?」
「いえ、人違いだと思いますので」
「そうじゃなくて、ずっとひとりでいたよね」
「え?」

戸惑っていると、巧は苛立ったように言った。

「おい、相手してないでさっさと断れ」
「え?」
「こんな古すぎるナンパにいちいち引っかかるなよ」
「えぇ!?」

古いもなにも、初体験なので陽菜は要領がよくわからない。巧に急かされ、慌てて荷物をまとめて立ち上がる。

「あ、あの。失礼します」
「ちょっと待ってよ、誘われるの待ってたんでしょ?」

引き止められるのと同時に、手首を掴まれ肩を抱かれる。もうひとりが腰に手を回しぐいぐい引っ張るので、もつれる足を合わせるので精一杯だった。押さえ込まれてしまい、身動きがうまく取れない。

「や、やめて」

(どうしよう、怖い)

「巧さんっ」
「監視員呼べ!」

幸い見回りをしていた監視員に助けを求めると、ふたりはすぐに逃げていった。巧は周りに聞こえないのを良いことに、大きな声を上げて陽菜を叱る。

「まったく、お前はどうしてそう鈍いんだ」
「だってこういうこと初めてだし」
「ひとりでいるんだから、危機感くらい持てよ」
「ひとりって、巧さんと一緒だったし」
「はぁ?バカか!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
「一緒にいたって、俺を呼んだって、守ってやれないんだぞ!」
「え?」
「俺は幽霊なんだから、助けてあげられないんだよ!」

俯いて怒鳴る巧の顔は、半分は前髪に隠されていたけれど、悔しそうに唇を噛みしめていた。陽菜は巧にこんな顔をさせたくはなかった。自分の不甲斐なさに、彼の怒る意味にやっと気づく。

「ご、ごめんなさい」

陽菜はうるんだ目に溜めた涙をこらえる。巧はわかればいいと言わんばかりに、そっぽを向いてしまった。しばらくの沈黙の後、巧は咳払いをして言う。

「まぁ、よかったな」
「はい?」
「初めてナンパされましたって、自慢できるぞ」
「恥ずかしくて言えませんよ」
「まず親友に報告でしょうが」
「だからっ!もうっ」

気まずい空気は一瞬で、すぐに巧は意地悪いことを言った。それが嬉しいなんて言ったらまた何か言われそうで、とても言えないけれどこの関係が愛おしかった。空と海の真っ青な吹き抜けを眺めて安堵する。

時間を忘れて、防波堤を散歩したり水平線を眺めているうちに、空はグラデーションを作り始めた。夕暮れの海は汗ばんだ身体を優しく撫でる。潮風に吹かれながら、波打ち際をふたりで歩いた。遠い海の向こうに終わりなんて見えなくて、とても綺麗なのに少し怖い。

「王子様は、日が沈むのが好きでしたね」
「え?」
「巧さんの本の話ですよ」
「あー、うん」
「いろんな星へ行って、いろんな出会いをして、地球の砂漠に降り立って」
「うん」
「続きはどうなるのかな」
「うん」

巧は何か物思いに更けっているようで、気の抜けた返事を繰り返す。

「巧さん?」
「砂漠みたいだな」
「砂浜が?」
「そう」

砂漠に着いた王子様。巧も誰もいない世界が続く場所で、ひとりぼっちでいるのだろうか。近い未来、こうなることを予想しているのだろうかと、陽菜は胸がしめつけられる。

寂しさを紛らわすかのように沈む夕陽に見入る巧は、消えてしまいそうなくらい眩しく照らされていた。はっきりと見えないその横顔は、涙があふれないだけで、もしかしたら泣いているのかもしれない。陽菜が受け止められる悲しみはどれだけだろう。少しでも元気づけたかった。

「巧さん、オアシス!」

じゃーんと両手を広げ海を抱き込むと、巧はようやく笑った。

「随分しょっぱいオアシスだな」
「ここは私たちのオアシスです」

陽菜は砂浜にふたりの名前を描いて、ハートで囲う。

「そのうち波に消されるぞ」
「そしたら、また描きます」
「また消されたら?」
「何度も、何度でも、描きます。だから大丈夫です」
「え?」
「ひとりじゃないですよ」

立ち止まると、浸した足が波とともに海へ吸い込まれるようで怖かった。同時に巧の驚いた顔が、困った顔へと変わる。陽菜は構わず手を差し出した。

「ほら、見てください」

巧の手に自分の手を合わせる。本当は、ぎゅっと抱きしめたかったが、握り返して寄りかかってほしかった。夕陽が沈む前にと、重ねた手と手が闇に隠れてしまわぬうちにと陽菜は願う。

重ねられた手を、握りしめることも振りほどくこともできずに、巧はため息をついた。陽菜の手がピクリと震える。臆病なくせに全身でぶつかってくるから、巧は嘘もつけずに弱くなる。巧のために全力で笑うから、その笑顔を守りたくなる。

「俺が見える?」
「はい」
「俺は死んでいるんだよ?」
「はい」

巧の存在を知っているのは彼女だけ。感覚もない、熱も伝わらない、盾になることもできない。望んだらきっと引き返せなくなる。後悔するとわかっている。

「俺は君に何もできないんだよ」
「いいえ、巧さんは私に大切なことを教えてくれました」

一輪の気高き心は凛と咲き、その美しさを凌駕する。

「俺としたことが迂闊だった」

本気になるなんて思わなかった。

「そういう奴だったよな。お前は」
「えっと?」

巧が笑うと、目を白黒させて首を傾げる。

「夕暮れの砂浜でロマンチックにキスしたいんだっけ?」
「えっ、えっ」

たちまち夕陽よりも頬を赤く染めて、淡い期待でもするかのように息をのむ。巧が背を屈めて近づくと、目をバチバチさせて唇を一文字に結んだ。可愛いなぁなんてガキ相手にうつつを抜かす巧を、生前の自分が知ったら鼻で笑うだろう。いつまでも見つめてくるので、キスなんてせずに額を指先で弾いた。

「あたっ」
「痛いわけねーだろ」
「き、気持ち的に痛いです」
「どうして君は、こうも真っ直ぐなんだろうね」

乙女心がどうたらと言っている陽菜を、巧はどうしようもなく愛おしいと感じた。困った顔をわざと見せて、眉尻を下げる。もう巧は陽菜に完敗だった。


「さて、そろそろ帰ろうか」
「あ、あの!小腹がすいたのでちょっと寄り道していってもいいですか?」

陽菜は嘘をついた。初デートの憧れだと言ったら、寄れないかもしれないから。そうして近くに見つけた隠れ家風のカフェに入る。アンティークな店内と、所々にあるお洒落な雑貨、可愛らしい植物は見る者を楽しませた。レジ横に置かれた小さい水槽には金魚が二匹泳いでいる。

汗が引く頃に届いた一人分のコールドドリンクとパンケーキ。淡いピンクのイチゴソーダには、氷がゴロゴロ詰まっていた。ふわふわのパンケーキにナイフとフォークを刺しながら、陽菜は目の前に座る巧を見る。

「はぁ。初デートはなんだかボロボロでした」
「お子様にはまだ早かったか」
「水族館って子供っぽいんですか?」
「水族館は、本当のデートで行きなさい」
「やっぱり巧さんには物足りないですか?」
「いや、この年になると落ち着いてて逆にいい」
「でも、じゃあどうして今日は」
「本当の時に行けって、言ったでしょ」
「あ……」

(私は、暇潰しの相手だから?)

生きていようが幽霊だろうが、そんなことはどうでも良い。意地悪で、自分勝手で、格好よくて、優しい彼に、失敗ばかりの自分は釣り合わないということか。陽菜は深いため息をつく。

「大人のいい女になりたいです」
「はぁ?また?」
「美人で色気があって頭が良くて、あとは」
「いい女は外見じゃないんだよ」
「え?」
「目の前のことに一生懸命なお前は、いい女だと思うけどね。俺は」
「巧さん……」

(そっか、十歳も年上の人に背伸びしたって届くわけないんだ)

それなら陽菜はありのままの自分の、とびきり一番を見てほしいと思う。そうしたら、巧はすべてを受け止めてくれる気がした。

「じゃあ、巧さんはいい男、ですね」
「もちろん。ま、気分転換にはなった?」
「え?」
「最近なんとなく元気なかっただろ」
「私のために?」
「いや、俺が出かけたくなったの」

巧はふんと鼻を鳴らし前髪をかき上げる。巧のことがどんどん好きになっていく自分を、陽菜は止められなかった。カフェを出て駅へ向かうことすら名残惜しく、自然と足が重くなる。そんな陽菜を見て、巧はクスクスと笑いながら手を差し出す。

「帰るんだろ?一緒に」
「はい!」

ぱっと瞳を輝かせて飛びつく陽菜に、巧も名残惜しく恋い焦がれた。恋い焦がれたのだが。

「あれ?あれれ?」
「さすが!やってくれるね」
「えーっ、おかしいなぁ」

行きは電車を乗り継ぎ数時間、帰りももちろんそのはずだった。しかし途中まできて、乗り継ぐはずの電車が来ないことに首を傾げる。

「うーん。そんなはずじゃ」
「諦めろ」
「このスマホおかしい」
「お前がおかしいんだ」

駅員に聞いても陽菜の求める電車はないと言われ、路頭に迷ってしまった。

「さっさと諦めて、今晩泊まるところ探せ」
「えーっとですね」
「なに」
「巧さん、お金貸してください」
「幽霊にたかるな!ってお前まさか」
「お察しの通り、帰りの電車代しか残ってなくて」

巧の引きつった顔に怒筋が見える。たっぷりとお説教した後、巧は仕方ねーなと頭をかいた。

「ついてこい」
「え?」

陽はどっぷりと沈み、道は夜に包まれ歩きづらい。そんな中、黙々と先を行く巧を小走りに追いかけながら、陽菜は不思議に思う。まるで土地勘があるみたいにスイスイと進んでいくのだ。右へ曲がり左へ曲がり、細い小路を抜けまた曲がり、陽菜にはもうどこをどう歩いてきたのかわからない。

「巧さん、迷子になっちゃいますよ。私もう道覚えてません」
「俺知ってるから、大丈夫」
「え?」
「野宿したくなかったら、黙ってついてきなさい」

やがて獣道のような草の生い茂る脇道へ入る。草に足をかかれ息も上がってへとへとになった頃、やっと巧が立ち止まった。

「お疲れ様」

見ると山中にぽつんと佇む古い山小屋。

「ここは?」
「山小屋」
「そのくらいわかりますよ」
「古いけど一泊する分には問題ないだろ」
「あ、はい」
「鍵はたしかこの辺に隠してあったはず」

中へ入ると、湿った木の匂いがした。斧や縄が無造作に置いてあり埃っぽいが、小綺麗な空間だった。天井には小窓がついていて、夜空が見える。

「わ!巧さん見てっ、星がたくさん」
「ん?」
「綺麗ですね」
「そんなに星好き?」
「ロマンチックじゃないですか!」

うっとりしてため息をこぼしていると、巧はドアの前に立ち、外を指差した。

「お前、まだ歩ける?」
「え!えぇ、まぁ、なんとか」
「よし。ご褒美をあげよう」

巧の言うご褒美は、木々を抜け拓けたところにある小高い原っぱのような場所だった。陽菜は思わず両手を広げて、くるくると回る。

「まるで銀河の中に落ちたみたい」
「なんて表現力だよ」
「素敵な丘ですね」
「向こうのほうは街の夜景」

巧の指差す先を見下ろすと、色とりどりの眩い光が広がっていた。見上げれば満天の星空で、無数の星々が散らばっている。

「でも、どうしてこんな場所知っているんですか?」

覗き込んでも目を合わせてくれず、そのまま腰を下ろしたので、陽菜も黙って隣に座る。巧は少し空を見上げてから、話し出した。

「祖父に育ててもらったんだ」
「おじいさん?」
「ほら、俺だけ生き残ったじゃん」
「あ」
「引き取ってくれる身寄りが祖父しかいなくて、しばらく一緒に住んでたのよ」
「そうなんだ」
「それが偶然にもこの町で、山仕事やってた小屋がまだ残ってたわけ」
「つまり巧さんの育った場所?」
「そう」
「じゃ、おじいさんはこの近くに住んでるんですか?」

だから暗くても戸惑わずに進めたのかと陽菜は偶然に感謝する。もしそうなら自分に何かできるかもしれないと思ったが、巧は首を振った。

「俺が大学生の時に病気で他界」
「あ、すみません」
「いや。だからまたここに帰って来るとは思わなかった」
「ずっと来てなかったんですか?」
「うん。家も売っちゃったしさ」
「えっ」
「学費の足しにしろって、祖父の遺言。余計な負担かけたくなかったんだろうな」
「巧さんが、自分の道を歩けるように」
「そうかもな。偶然とはいえ、来れて良かったわ」
「そっか。よかったです」
「お前のおっちょこちょいもバカにできないな」
「きっと!おじいさんが見ていてくれたんですよ」
「はぁ?」
「導いてくれたのかも!」
「え、お前そういうの信じる人?」
「それ巧さんが言います?」
「う、ん。たしかに」

巧は悩ましげに眉を寄せたが、陽菜は清々しく笑って夜空を見上げた。その時、ヒュンと瞬く間に流れた光に思わず興奮する。

「お、お願いしなきゃ」
「遅いって」

陽菜は両手を組んで目をつぶる。そんな様子を呆れたように笑いながらも、期待通りの反応だったのか、巧は満足げだった。

「で、なにをお願いしたの?」
「秘密です」

陽菜は悪戯に微笑み、人差し指を立てる。巧は眉を上げて口を尖らせたまま、草の上に身体を投げた。陽菜も真似して寝転がる。

巧は内心、こいつ上目使いなんていつの間に覚えたんだと冷や冷やしていた。最近急に色っぽくなったとも思う。変な奴が寄りつくのも納得で、実は気が気ではないのが本当。自分に感化されたと勝手に思っているけれど、あながち自惚れではなさそうだ。陽菜は表現がストレートだから、余裕ぶっていると痛い目をみる。

「うーんと。夏の大三角ってありましたよね?」
「こと座、はくちょう座、わし座」
「えっ、もう一回お願いします」

大きな空に向かって立てる巧の指先を覗くのに必死で、気づくと頬が触れ合う距離にいた。驚いたけれどもう少しだけ近づきたくて、そうしたら触れられる気がして、わざともっと近づく。冷淡にも、肩も頬も髪も、スッと霞めただけだったけれど。陽菜は、こんなに近くにいるのに、どうしてふたりはこんなにも遠いのだろうと唇を噛む。巧は天を指差したまま、陽菜を横目に見た。

「よく見ろよ。こと座のベガ、はくちょう座のデネブ、んでわし座のアルタイル」
「巧さん、星もわかるんですね。さすが先生」
「これは小学校の理科だろ」
「えぇっ」
「ところで!」
「ひっ!」

あまりの近さに巧が耐え兼ねて覆いかぶさると、濡れた瞳に星を写した陽菜には途端に艶が出る。陽菜の顔の両脇に腕を着けた巧は、挑発するかのように首を傾げた。

「近くね?」
「へ?」
「積極的だね」
「そんなつもりじゃ」
「しらばっくれるなよ。自分から擦り寄ってきといて」
「夕暮れの砂浜か、星空の下か」
「えっ」
「どっちがロマンチックだろうね」

なにか含み笑いをして口角を上げる巧に、カッと熱くなり沸騰寸前の陽菜はゴクリと唾を飲んだ。肩をすくめてそっと視線を外すと、コラッと怒られる。

「どうしてくれよう。大人を煽るとこうなんのよ?」
「こ、子供をからかわないでください」
「からかってるだけだと思う?」

負けてばかりいられないと言い返したが、不意に巧から笑みが消える。陽菜の気持ちは巧にとってあふれすぎていて、求めているのが手に取るようにわかった。そのくせ逃げようとするから、巧も簡単に逃がすわけにはいかない。唇をなぞるように親指を這わせると、ぴくんと跳ねた。

「ねぇ、なにお願いしたの?」
「怒りませんか?」
「うん」

瞳を泳がせながらしばらく躊躇っていたが、やがて観念したのか眉を下げる。

茶色の髪がサラっと流れ、震えたまつ毛が色っぽい。間近で見るこんな巧は、陽菜にとってなんだか知らない人のよう。妖美な瞳に真っ直ぐ射抜かれたら、もう溶けてしまいそうだった。

「巧さんと、ずっと一緒にいられますように」

気づいたら、唇が触れていた。そこに温もりなんてない。どうしようもなく抵抗がほしいと思った。受け入れてくれる小さな抵抗でよかった。そうして叶うのならば、吐息を重ねたい。

ずっとずっと、この瞬間が続けばいいのに。時よ止まれ、心の中で何度もつぶやいた。