「白」
「き、きゃぁぁ!」
「うるさい」

起床して早々、陽菜が寝惚けていて確認不足だったせいか、巧が息を潜めていたせいか。確実に前者だろうが、陽菜は悲鳴を上げた。

「変態!セクハラ!」
「お前が勝手に脱いだんだろ」
「あっち行って」
「俺は気にしないって」
「私が気にします!」

あまりにも暑いのでシャワーを浴びようと、部屋から脱衣所までの道中、上を脱ぎ捨て下を少し脱ぎかけたところでフリーズした。

「下着まで脱がれたらどうしようかと思ったよ」
「巧さん最低!お嫁に行けないっ」
「お嫁に行きたいんだったら、服を脱ぎながら家の中フラフラすんな」
「そんなこと言われても」

女ふたりでの生活が染みついているものだから仕方ない。巧と出会ってもう一週間が過ぎたが、幽霊には慣れても男の人がいる日常にはなかなか慣れなかった。

とはいえ、陽菜は昔から家ではひとりのことが多かったので、四六時中誰かと一緒にいるということは新鮮だ。不思議と会話の絶えない巧とは、もしかしたらフィーリングが合うのかもしれないと、自惚れてみたり期待してみたりした。

けれども、今までまともに恋なんてしたことがない。好きだと自覚してからまだ数日だというのに、変わらない彼との距離がもどかしかった。一緒に過ごすほど大きくなっていく気持ちをどう消化したらいいのだろうか。

「私、シャワー浴びてくるので」
「それは覗いてくださいという解釈でよろしい?」
「よろしくないです!」
「彼女だろ?」
「か、かのっ」
「いつまで恥ずかしがってんの?そろそろ受け入れろよ」

恥ずかしいというだけではなく、都合よく当事者から彼女にだなんて移行できない現状がある。相手もいろいろと難有りなもので、きっかけもなく堂々と彼女面できずにいた。それなのに巧は、その類のフレーズに弱い陽菜を容赦なく追撃する。

「とにかく、覗きはダメです!」

振り切り脱衣所へ急ぐ陽菜を、笑い声が追いかけた。


「彼女、かぁ」

生温い温度のシャワーに少し鳥肌が立つ。きっと彼にとっては、成仏するまでの暇つぶしの彼女だろう。心ばかり、部屋を片付けたり、服に気を遣ったりし始めた陽菜に気づいているのかいないのか。

「彼女なら、花火大会一緒に行ってくれるかな」

アルバイト先のコンビニエンスストアに掲示してあるポスターは、きっと巧も見ているはずで、話題に出せば行きましょうと言えるはずなのに。いざとなると緊張してしまい誘えないままでいる。

「ふたりで、行きたいな」

この関係にもっと甘えられる柔軟性があればなと、時々思う。密かな願望は、無情にもシャワーの音にかき消された。


「なんか鳴り続けてたぞ」

部屋に戻ると、巧がベッドの上に放置されたスマホを指差して言った。履歴を見てみると、茜からの着信が三件、メッセージが一件入っている。

電話に出なかった陽菜をダラダラ寝ているものだと思ったらしい。相談があるから今から行くね!という内容を確認し、慌ててスマホの画面を巧に突き出した。

「今から茜が来るって!大丈夫ですか?」
「なぜ俺に聞く」
「だって」
「お前に会いに来るんだから、俺は関係ないでしょ」

呆れた巧は薄めで「勝手にしろよ」とベッドに寝転がる。そうして不満げに唇を尖らせた陽菜に追い討ちをかけた。

「いたって見えないし、いないようなもんだろ?さすがに邪魔しないって」

陽菜はそれが嫌だった。自分の都合で巧をないがしろにしたくないし、彼のための毎日の中で、寂しいことは言わせたくない。好きな人ならなおさらだった。

「いないようなもんじゃないんです!」
「わめくなよ」

巧が占領するベッドの端をボフボフと叩いて叫ぶと、巧は面倒臭そうに起き上がり深いため息をついた。

「来たら部屋から出てるって」
「それではダメです!」
「はぁ?盗み聞きなんてしないぞ」
「そこじゃないんですよ」
「じゃなに?ガキの相談なんか興味ないって」

巧はむきになる陽菜が理解できないようで、軽くあしらうだけ。お互いの視点が違いすぎて、伝わらないもどかしさに歯ぎしりしていると、ピンポンと玄関チャイムが鳴り響いた。

「あれ?陽菜、出かけるところだった?」

玄関のドアを開けてすぐ、茜はキョトンとして聞いてきた。

「そんな予定ないよ?」

今日はアルバイトも休みだし、出かける予定もなく、巧と相談次第といったところ。まぁ、毎回聞くのだが、好きなこともやりたいことも特にないとの回答。リクエストがないので陽菜の生活リズムは崩れることもなく、感覚としては話し相手が増えただけ。

つまらないのではと案ずるも、巧いわく陽菜をイジルのが楽しいと、それだけで面白おかしいらしい。負担はないけれど、陽菜の乙女心は穏やかではなかった。

茜は部屋に通された後も、相変わらず呆気に取られたような顔で、今度はキョロキョロと辺りを見回しなにか観察している。

「茜ってば、じろじろ見てどうしたの?」
「部屋、ずいぶんと綺麗になったね」
「そうかな?」
「陽菜はもっとだらしないじゃない。足の踏み場もなくて、私いつも座れないんだから」

ストレートな言いっぷりに、陽菜は喉の奥をひくつかせた。

「あ、茜の部屋だって!」
「陽菜ほどじゃないわよ。あの状態では男の人も引くからね?」
「えっ、ひどい」
「服も可愛いの着てるし、寝癖もついてないし、そっちこそどうしたの?事故に遭って頭でも打った?」

ピシャリと打ちのめされたうえ、真顔で心配されると怒るにも怒れない。返す言葉に詰まりつつ、でもやっぱり失礼だよなと思い直す。

「私だって片付けくらいするもん」
「初めて見たけど」
「もうっ!麦茶でいいよね、待ってて」

ドスドスと足音を立てて歩きながら台所へ行くと、そこでは巧がお腹を抱えて肩を揺らしていた。

「巧さん、盗み聞きしないって言ったのに」
「デカイ声が聞こえたんだよ」
「でも言いすぎですよね。私が今まで悲惨な女だったみたい」
「悲惨だったろ。キノコとか生え的そうな部屋だった」
「巧さんまでっ!」

イーッと歯を剥き出して威嚇するが、ベッと舌を出した巧に相殺される。

「事故に遭って幽霊に怒られましたって言っとけ」
「いじわるっ」

これ以上からかわれる前に、茜の相談とやらを聞いてしまおうと部屋へ急いだ。


「それで、相談ってなに?」

トレイにのせて運んできた二人分の麦茶をローテーブルの上に置く。茜はコップの中で揺れるそれを一口飲んで、本題を切り出した。

「花火大会のこと、なんだけど」

陽菜はドキリとした。あまりにもタイムリーな話題は、可能ならば陽菜だって相談したいくらい。

「佐野先輩と行きたいの。でもふたりでってなると誘いづらくて」
「あぁ、わかる。そうだよね」

陽菜自身、言い出せていないのでその気持ちがよくわかった。同じような悩みがあるって心強いけれど、解決策があるのなら、いつも彼がそばにいる陽菜はとっくに誘えているはず。肩を落として遠くを見るようにため息をついたのだが、なにやら興奮した茜は身を乗り出した。

「だからねっ、佐野先輩と先輩の友達と、私と陽菜でダブルデートって感じにしたいの!」
「え?私は遠慮しとく」
「なんで!?お願い、わかるでしょ?」

わかるし、わかるとも言ったけれど、首を縦に振ることができない陽菜に勢いは増して、茜はダンッと手のひらでローテーブルを叩いた。コップの中で荒波のように揺れる麦茶が禍々しい。

「陽菜、お願いだよ!佐野先輩もそれならオーケーだって言ってくれたの!」
「え?なにそれ、勝手に」
「会ってみたら凄く気の合う人かもしれないじゃない?陽菜だって、彼氏つくるチャンスかも!」
「いや、私は……」

正直、今はそんなチャンスはいらないのだが、話がすでに通っているとは驚いた。茜の恋愛に対する行動力は見習いたいところ。問答無用でぐいぐい攻められ、親友を応援する身としては、不本意でも約束するしかなかった。


茜を見送った後、洗い終えたコップを拭きながら、蛇口からポタポタとしたたる水をぼうっと眺める。やがて滴が途絶えると、陽菜は代わりに大きなため息を落とした。

後ろには、いつも陽菜が座る席でずっと待っていた巧がいるのだが、自分の意に反する結果となっただけに、きまりが悪くて背を向けたまま。なるべく目が合わないように俯いた。いつどう切り出そうか思い迷っていると、ダイニングテーブルに頬杖をついて静かに座っていた巧が口を開く。

「あいつらと行きたくないの?はしゃいで行くかと思ったのに」
「聞いてたんですか?」
「筒抜け」
「えっ」
「声デカすぎ。不可抗力」

古いアパートの薄い壁を突き破る声量は若さゆえ。ポリポリと首をかきながら、すまなそうな顔をして肩をすくめたので、陽菜も同じようにして頭を下げた。そして、メランコリーな心の内を打ち明ける。

「本音を言うと、断りたかったんです」
「そんな顔してる」
「でも、応援したい気持ちもあって」
「お前にも出会いはあるわけだし、悪い話ではないんじゃない?」
「出会いなんて、いりませんよ」
「意外と奥手だな?彼氏つくれるように助言してやろうか」
「結構です」

巧は陽菜が他の誰かとデートしたり、彼氏ができたりしてもかまわないらしい。お遊びの関係に期待するのは筋違いだけれど、陽菜はやはりショックで寂しかった。

一度、深呼吸をして息を止め、覚悟を決める。好きな人から新しい出会いを勧められるよりも、今だけ彼女として独占してほしかった。だから、折れてしまいそうな気持ちを奮い立たせ強気を見せる。

「私、二股できるほど器用じゃないので」
「へぇ?ようやく彼女としての自覚が芽生えてきたか」
「きたんです!」

巧は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに面白そうにニヤリと口角を上げて目を細める。そしてククッと笑いを噛み、からかい始めた。

「期待しちゃうなぁ。俺が彼女にしてほしいコト、してくれるんでしょ?」
「え、えぇ?」
「虚勢を張っているだけなら、今のうちに観念しておいたほうがいいぞ」
「そんなこと、ありません」

そんなことあるので、染まる頬から汗が吹き出しそう。大人しく観念しようか躊躇していると、陽菜の恋心を一刀両断するかのように、巧は太刀を振り下ろした。

「ま、でも。ちゃんと割り切れよな」
「え?」
「俺とは関係のないことだろ」
「関係ないなんて。巧さんのこと、そんな簡単に割り切れません」
「行けば幽霊なんか忘れて楽しめるって。さすがに邪魔しないよ」
「そんな」

どうして巧は、自分の存在を否定するようなことばかり言うのか、陽菜にはわからなかった。しんとしてしまった台所で、蛇口から涙のように落ちた一粒が音を立てる。その小さな音を、無言はかき消せない。

「私は幽霊とか見えないとかの理由で、ないがしろにしたくないんですよ」
「なんだよ。同情か?そんなの受け付けてないから、好きなように・・・・・・」
「違います!だって巧さんは、ただ触れないだけで、ちゃんとここにいるでしょ!」

いよいよ不満があふれ、巧の言葉をさえぎった。

「私は、巧さんと行きたかったんです!」

冷静さを欠いて叫んだ陽菜は、ドタバタと足音を立てて部屋へ逃げ込み、荒々しく目尻を擦る。

「巧さんのバカ、アホ、変態」

どうしようもない文句をブツブツ吐き出しながら、オレンジ色の星型のビーズクッションを抱きしめベッドに突き伏す。クッションの少しひんやりとした滑らかな感触に、すがるように頬を擦り寄せた。

陽菜が捨て台詞のごとく叫び、今にも泣き出しそうな顔で出て行った後、巧はしばらく動けなかった。本来の巧ならば、こういう女は面倒で放っておく。しかしいかんせん、他のコミュニティもタスクもないので、憂愁に差す陽を雲で隠すわけにもいかない。

ため息をついて、陽菜の忙しい胸中に頭を悩ませる。はしゃいでいれば存分にからかうつもりでいたのに、肩透かしをくらってしまった。

「素直に青春してくればいいものを」

そう、素直は得意分野だろう。無神経で図々しいところもあるが、感受性が豊かだから相手の気持ちに敏感で、だから深入りしてしまうのだろうか。それが彼女の良さでもあるけれど。

「幽霊にまで固執してどうするんだよ」

暴言が聞こえてくる部屋のドアは開けっ放し。閉じこもりたい時くらい閉めればいいのに、それをしないのは陽菜がだらしがないからではなく、巧が部屋にいないからだ。壁抜けの術ができる巧への不要な気遣い。

「ちゃんとここにいる、か。同情されたほうがマシかもな」

巧は仕方なしに七歩ほど歩いた。台所からすぐ、二部屋あるうちのひとつがリビング兼母の部屋、もうひとつが陽菜の部屋。築年数は確実に巧の年の倍近くある。そんな古さも母が室内を小綺麗に保っているので、昔懐かしく感じる住まい。

しかし例の空間はパラレルワールド。対照的だった部屋が片付いた後は、テンションの高い色彩のインテリアに囲まれ、いかにも女子高生な雑誌やぬいぐるみが多数転がっていた。

その中に間抜けな顔がついた、ヒトデのようなクッションがある。日頃からよく腕の中にいるそれに、陽菜は息ができるのか不思議なほど顔を埋めていた。巧がいる部屋の入口からでは、泣いているのかどうかわからない。わからなかったから、近づいて隣にしゃがみ込み、自分でも気持ち悪いくらい優しく声をかけた。

「俺に遠慮してるなら、気にしなくていいからね」

ベッドと陽菜の顔に挟まれヘタっているヒトデは、半口を開けてこんな巧を嘲笑っているようだった。物音もなく現れた巧にビクッと肩を奮わせ、ゆっくりと上げた顔には、乱れた髪の毛が絡みついている。巧は思わず、幽霊みたいだぞと目を細めた。

「遠慮なんてしてないです」

そう言って髪の隙間から巧を覗き見て、陽菜はまたヒトデの顔面に埋もれていく。

「巧さん、私」
「ん?」

ヒトデの中から聞こえる、くぐもった声を必死に聞き取った。

「本当にただ、巧さんと行きたかっただけなんですよ」
「うん」

陽菜なりの気持ちはありがたいし、付き合わせておいた自分が言うのも理不尽だと思ったが、巧は言う。

「でも俺は気が進まないなぁ」
「えっ、もしかして」

何に気づいたのか、陽菜は突然ガバッと顔を上げたかと思うと、ピョンと身体を巧のほうへ向ける。それから前のめりになって、両手を床についた。必死なのだろうが、その顔はベッドに置き忘れられたヒトデの表情を転写したかのように間抜けで、言うこともまた、少々ずれていた。

「もしかして、お祭りとか嫌いでしたか?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、私がガキだから?」
「いや、うーん」

なんて軽快な思考回路なのだろう。眉間にしわを寄せる陽菜には、ストレートに言わないと伝わらないらしい。おかげで疑問を呈する生徒を相手にするかのような感覚を味わった。

「あのね。幽霊と生きている人間、どちらを選ぶべきかって話」
「そんなの、もちろん巧さんじゃないですか」
「よく考えなさい。付き合えとは言ったけどね、お前の交遊関係までねじ曲げる必要はないの」
「意味わかんないです」

しゅんとして眉尻を下げられると子犬のようで、つい頭を撫でてやろうと伸ばした手を、巧はすんでのところで引っ込める。その手で自分の前髪をかき乱し、ゆっくりと一息ついた。

「根本的な問題。君は今、生きているでしょ」
「はい」
「俺は死んでいるわけだから、君の遠い未来には決して関わることがない」
「それはっ」
「つまり第一に、自分がこれからも有するであろう繋がりを、優先したほうがいいってこと」
「え……」
「君には、君の人生があるんだから」
「私の心配?」
「道路に飛び出すほど楽しみにしていた夏休みなのに、バイトしかしてないだろ」
「だからやりたいことを聞いても、ないって言ったんですか?」
「それは別。本当にないだけだって」

余計なところにまで気を回さなくていいから、素直に納得してくれと巧は願う。依然、食いつくように身を乗り出したままの彼女と見つめ合って、承諾を待った。

「ひとつ、質問してもいいですか?」

見えない脳内はどう働いているのか、変化球に構えてから巧は頷いた。

「今、自分を偽って幽霊していますか?」
「唐突だな。死んでまで偽る必要もないだろ」
「それならよかった。生きているときと変わらない、本物の巧さんですね」
「はぁ?」
「幽霊だけど、今、私と生きているってこと」

穏やかな笑顔と澄んだ声に混乱して、消えた魔球を探しさ迷い穴に落ちる。投手は一瞬だけ左上を見て、巧が言ったばかりの言葉を難しそうにかい摘まんだ。

「未来に有するであろう繋がりを優先しないのは、巧さんと一緒にいられて、すごく楽しいからです」
「え?」
「一喜一憂しながら、私は毎日、充実した一分一秒を過ごしています」

陽菜を子供だとあしらっていたのに、綺麗な二重瞼を際立たせて露にした心の強さは、年齢なんて関係なく凛々しくて美しいものだった。そんな彼女は、そっと両手を胸にあて仕舞うようにつぶやく。

「未来に巧さんがいなくても、それは私の人生において大切な一部ですよ」

きっと陽菜のそこは、宝物を入れる木箱のようにあたたかな温もりがあふれる場所。巧は思わずゴクンと喉を動かし、両手を見守った。

巧の中で、静かに圧倒されつつ満ち足りてしまう、複雑な心情がせめぎ合う。このふたつの対立にフリーズする巧を、陽菜はまったく認識していない。それどころか、なにやら恥ずかしそうに髪の毛先をいじり始め、イヒヒと歯を噛んで言った。

「巧さんも、そうだといいな」

その純粋は、青天の霹靂。巧は稲妻のような一撃で火照る気持ちを押し鎮めるために、大きく空気を吸い込んで深々と息を吐く。しかし残念ながら収まりきらず、陽菜につむじを見せて五秒ほど堪えてみる。それから平静を装い顔を上げて、睨むように見据えると、少し首を傾げた陽菜の黒髪が揺れた。

「巧さん?」
「まぁ、まずは親友のお願いだろ。気楽に答えてやれよ」

陽菜の思いを無視したわけではないのだけれど、真っ直ぐ過ぎて、巧は返答に窮するあまり飛び越えてしまう。雑にページをめくって勧めた台詞に、渋々頷いた陽菜の表情は、少しふて腐れているようにも見えた。巧は苦笑いしながらすぐに補足を加える。

「そばで見物してるからさ」
「えっ」
「だから、どうしても嫌だったら途中で抜ければいい。その時は・・・・・・」
「その時は?」

急かすように身を乗り出し、キラキラした視線を注いでくる陽菜に、巧は堪えかねて少し背中を引いた。期待される続きは彼女の望むことだろう。

「その時は、お前の好きなように、付き合うよ」

案の定、パッと顔色が明るくなり、憂いのない晴れやかな笑顔が花開く。

「じゃあ、花火は一緒に見てください!」
「うん、いいよ」
「約束ですよ」

そう言って、おもいっきり口角を上げた陽菜が、そっと小指を差し出した。巧は今日、何度心をかき乱されただろうか。幸いは、恋愛感情がないことだと思った。

「なにそれ、透かすじゃん。本当お子様だな」

クスリと笑ってベッドに肘をかけ頬杖をつく。巧は陽菜に負けない抑圧を取り戻したつもりで、もうまごつくことはない予定だった。しかしどうしたことか。受け流したはずが、目の前では小指を立てたまま、やれやれと頭を振っている。

「はぁ。これだから大人は。目と目でだって、触れるんですよ」
「ん?」
「ものの例えです。国語の先生なら、なんとなくわかるでしょ?」
「あぁ」

そうしてその小指は、いつまでも巧を待った。

「でも俺、幼稚園の先生じゃないから」
「バカにしていますね?私、巧さんによくはぐらかされるので信用できません。約束はきちんとしてください」
「あ、はい。ごめんなさい」

なおざりにすることができず、素直に謝りなんだかんだ従う巧は、もう陽菜のユーモアに侵されているのかもしれない。指切りをすればきちんとした約束になってしまうなんて、かなりぶっ飛んでいるとは思ったけれど、彼女のお気に召すままだった。

巧は仕方なく、目と目で触れる。それだけなのに不思議と、重なった小指は温かかった。

「お前のこういうところ、可愛いよな」

思ったことがそのまま、ぽつりと言葉になって出た。巧にとっては何でもない一言だったのだが、絡み合うように曲がっていた細い小指に電流が走るのがわかる。染まった頬を見られまいと俯く陽菜に、気づかないふりをして巧はひとり微笑んだ。

「君が望むのは、道端の小石さえうつくしむ万物の物語、なんだろうね」
「はい?」
「わからないなら、いいよ」
「もう一回言ってくれたらわかりそうです」
「やだね」

一時だけの巧の存在を、対等にうけがう陽菜。懇願するその桃色の頬に、巧は舌を出した。