「いつまで寝てるんだ!お前の母親、もう仕事行ったぞ」
「あとじゅっぷん」
「おきろ!」

幽霊になった巧が現れて二回目の朝。幽霊と生身の人間が共存している、こんな奇妙な話有りうることなのかと陽菜は思うが、人間というものは追い詰められるとそれなりの適応能力が発揮されるらしい。彼がいることに早くも慣れつつある。

「さっさと着替えろ」
「またセクハラする気ですか?」
「寝癖頭にヨダレ垂らして、よれよれの服着た女なんかそそられないわ」
「失礼ですよ!」

陽菜も年頃の女の子。別にそそられてほしくはないけれど、据え膳がどうのこうのならば、もう少し気を遣ってほしかった。


沸々と沸き上がるのは昨晩のこと。帰宅して早速持ち帰った本を読むことにした。陽菜がベッドに腰かけてそっと表紙を開くと同時に巧も覗き込んでくる。隣に同じように腰かけて、懐かしそうにつぶやいた。

「久しぶりだな」
「そうなんですか、って近い!?」

何気なく隣を向くと、陽菜の顔のすぐそばに巧の顔がある。驚いて鼓動をのみ、さりげなく座り直して距離を取った。仮にも男の人とこんなに近づくなんて陽菜は初めてで、ましてやつい先ほど彼の部屋を訪れたばかり。残る余韻が熱を帯びる。気づかれまいと、そっと息を吐いた。

「どうした?」
「はいぃぃ!?」

巧はなんだこいつと思ったが、その動揺にあたりをつけ密かにニヤリと笑った。

「あぁ、いや。もっとこっち寄って」
「なんでですか!」
「見えないから」
「あ、すみません」

陽菜が慌てて本だけを差し出すと、巧はおもむろに朗読し始める。少し低くて艶のある声に聞こえてしまうのはなぜだろう。甘く誘われているようで、くすぐられる鼓膜に胸の高鳴りが疼く。本の内容に集中しようと思っても、まったく頭に入らない。沸騰寸前で目をつむると、隣からフッと声が漏れた。

「もしかして、わざとやってません?」
「ばれたか」

全身カチコチになっていた陽菜を、ガキだとかレベルが低いとか散々なほど馬鹿にする。結局、まともに読み始めることもできずに本を置いたのだった。


「もうっ、もうっ!」
「朝からなに悶えてるんだ?」

記憶を消せまいかと、カーペットの上に積み重なっていた服を鷲掴みバサバサと振り回す。風圧を受けたローテーブルの上の棒付きキャンディーが、二個ほど転がり落ちた。

「そもそも魅力に欠けるんだよな、この部屋。散らかすにもほどがある」
「私は住み心地いいんです」
「住むより生息だろ。内面から色気のなさが滲み出てるんだよ」
「先生なんかに、なにがわかるんですか!」

デリカシーの欠片もないと、いきり立つ陽菜に巧は目頭を押さえて深く息を吐いた。

「あのねぇ、男が部屋にいたらせめて身なりくらい意識するもんだろ」
「幽霊に?」
「ほらそれ。幽霊だとかって理由つけてすぐ気を抜く。だから彼氏いない歴十七年なんだよ」
「ひっ、ひどい!もうすぐ誕生日だけど、まだ十六歳です!」
「俺がいろいろ教えてやろうか」
「最低!この変態!幽霊教師!!」
「なっ」

いくら顔が良くても性格が悪すぎると、勢い任せに叫んだ途端、巧はさすがに顔を引きつらせた。

「着替えるから出ていってくださいっ」
「お前ほどこの俺を無下にする女は初めてだわ」

変態はともかく、幽霊教師は言いすぎただろうか。怒ってくれてもよかったのにと陽菜は反省した。しかし笑いながら出ていく巧が、なんだか上機嫌で調子が狂う。そして、いくらムカつくことを言われても、憎めないでいる自分にもため息が出た。


着替えて台所へ行くと、巧は二人用の小さなダイニングテーブルを見つめていた。その上には、母が陽菜のために作っておいてくれた朝食がある。

「お腹すいたんですか?」
「は?」
「ごはん、見てたから」
「幽霊は腹減らないの」

物欲しそうに見ているように見えたのだけれどと、陽菜は首を傾げ椅子を引く。クッションスポンジがぺたんこになった座面に、ゆっくりと腰を下ろし箸を持つと、巧も向かいに座った。そういえば、と陽菜は不思議に思う。

「幽霊である先生は、人にも物にも触れない。壁抜けだってできるのに、椅子やベッドに座ることができるのはなぜでしょうか?」

投げかけると、巧は右上をぼんやりと見つめてわずかの間考える。くだらないと馬鹿にされるのかとも思ったが、唐突の質問にも関わらず、職業柄か真面目な答えが返ってきた。

「潜在記憶みたいなものなんじゃないかと」
「記憶?」
「椅子の座り方とか箸の使い方とか、いちいち思い出さなくても身体が覚えていて、無意識にできるだろ。そういうのに近い気がする」
「先生は今幽霊だから、もしかしたら魂が記憶しているってことですかね?」
「さぁ。幽霊なんて矛盾だらけだし、いくら考えても奥底までは理解しきれないことなのかもね」

元凶の陽菜を前にして、巧は自分を矛盾だらけだと笑い肩をすくめた。

「いい加減もう食べろよ。母親に感謝して食え」
「いただきます」

ご飯とみそ汁、鮭に卵焼き。まず卵焼きに箸を伸ばす手を、じっと見つめる巧に察しがつく。

「やっぱり、食べたいんでしょう?」

素直に言えばいいのにと、陽菜は自分の口に入れようとした卵焼きを差し出した。

「うん?」
「はい、どうそ。お腹が空かなくても口寂しい時ってありますよね」
「え?」
「だから、あげますよ。はい、あーん」
「お前なぁ」

それは巧にとってなんだか恥ずかしいことで、頬を赤くし固まってしまう。ずいずいと差し出してくる攻撃に思わず口ごもった。

「お母さんの卵焼き、甘くて絶品なんですよ」
「そういう問題じゃなくて」
咳ばらいをひとつして巧は怒った。
「幽霊だから食べられないんだ!」
「えー」

矛盾を逆手に、モチベーション次第で味わえるかもしれないと思っていた陽菜は、しょんぼりして卵焼きを半分かじった。

「おいしいです」

覇気なく食べ始める陽菜に巧は申し訳なくなり、引きつった表情筋を動かし取り繕う。

「たしかに、うまそうだね」
「とってもおいしいですよ」
「なんか緑の入ってるね」

しかし興味を示されるとなんだか嬉しくなり、陽菜はすぐに調子を取り戻す。わかりやすいうえに単純で、得意気に説明を始めた。

「お母さん特製の卵焼きで、卵ふたつに砂糖大さじ一で、ちょっとお出しを入れて作るんです。この緑のは小ネギですよ」
「うわ、ネギか」
「嫌いですか?」
「うん。味が独特っていうか、臭いじゃん」
「身体にいいのに。私、卵焼きは巻くのが苦手で、お母さんみたいに綺麗にできないんですよね」
「え、料理できんの?」
「多少はできます。先生はなんでも完璧に作りそうですね」

ギョッと目を見開き心底驚く巧は、家事全般お手の物なのだろうと陽菜は面白くない。悔しくて唇を尖らせる。しかし巧はばつが悪そうに口をへの字に曲げた。

「あー、俺、料理はまったくダメ」
「え、だって一人暮らし長かったんじゃ?」
「俺の人生にコンビニは欠かせない」
「毎日!?コンビニおにぎり片手にしょっぱいカップのお味噌汁を飲んでたんですか?」
「勝手な想像をするな。弁当屋に定食屋とか日替わりだ」
「寂しい!だからご飯見つめてたんですね」
「うるさいな。でもこういう素朴な和食ってほっとするよな」

オジサンみたいなことを言う巧が、意外すぎてお腹を抱える。お袋の味が恋しいのかも知れないと思った。

「わかった!お母さんにおかずとか仕送りしてもらってたんですね?」
「そんなわけないだろ」
「先生の食生活じゃ心配ですもの」
「なに食って生活しようが俺の自由だろ」
「反抗期?大人気ないですね」
「アホな詮索しなていで、お袋の味をありがたく味わえ」

何を言っても馬鹿にされると思ったのか、巧は話を切るように立ち上がり陽菜の部屋へと消えていく。台所にひとり残され、卵焼きを噛みしめて思う。自分のせいで死んでしまった彼の、ご両親はどうしているのだろうかと。

「また私、失礼なこと言ったかな・・・・・・」


朝食を食べ終えた後、自分の部屋だけれど一応ノックして、そろりと覗く。巧は床に腰を下ろし、ベッドに寄りかかるようにしていた。その視線は、昨晩ローテーブルの端に置いたあの本。

眺めているだけなのかもしれないが、表紙と見つめ合っているようで、その表情はふたりとも寂しそう。まるで物思いにふけっているみたいだ。泥濘に沈んでいくような恐怖を感じた。

「先生!」

陽菜は少し声を張って呼んだ。近づきづらくて、部屋の出入口に突っ立ったまま話しかける。

「なにか、やることがあれば言ってください」
「やることって?」
「心残り、というか」
「あぁ、別にないよ。あとはちゃんと読書できれば満足」

カラッとした笑みを見せ、本を指差す。そんなあっさりと断ち切れるものではないと思うから、陽菜はできる限りのことがしたいのに。昨日とまったく同じに断られるが、どうにも腑に落ちなかった。

素直に言えないことがあるのかもしれない。自分だったら、家族や友達に会いたいと思う。無神経で、余計なことなのかもしれないが、それをせずにはいられないのが陽菜だった。

「差し出がましいことを言いますけど、ご両親に会ったりはしないんですか?」
「本当に差し出がましいな」
「わかってます!でも」
「会ってどうしろっていうの?そもそも俺のこと見えないでしょ」
「それは」
「声だって聞こえないんだ。結局なにもできないんだよ?それどころかお前が責められるかもね」
「でもっ」
「わざわざ波風を立てるなって」

突然の鋭い眼光に言い負け、陽菜はゴクッと喉を鳴らし唇を噛む。巧は呆れた様子を見せていたが少し違い、初めて会った時の試すような冷たい瞳と重なった。怖くて目を逸らしたくなる。ただ、食い下がったら、またそれで終わってしまう気がして、今は絶対に負けてはならないと必死に見つめ返すしかできない。

「あぁ、なるほど」

そんな陽菜の心内を、どうやら勘違いしたようで、巧は冷たい声色でつぶやいた。含みをもった唇が弧を描き、陽菜を嘲笑う。

「さてはお前、呪われないか心配なんだろ」
「え・・・・・・」
「ちゃんと成仏するから安心しろよ」

そんなこと、考えてすらいなかった。幽霊の姿を見た時こそ気に病んだものの、そんなつもりではなかった。陽菜は悲しくて悔しくて、滲んだ涙を噛み殺す。

「呪うとか成仏とか、そんなのどうだっていいんですよ」
「はぁ?」
「私なんて責められたっていいんです!先生の心残りとか、やり残したことを少しでも手伝いたいんです!」
「っだから、ないって言ってるだろ!」

振り払うように怒鳴られ、頭が真っ白になる。しかし、合わせて驚いたのは陽菜だけではなかった。巧は逃げるように口もとを手の甲で隠して顔を背ける。

幽霊になって現れた時も、陽菜が無神経なことを言った時も、こんなふうに感情的になることはなかった。それなのに、どうして。思えば彼はずっと、自分のことなのにどこか他人事で、本当の気持ちを見せてくれない。ごまかしたり威圧したりして逸らすことで、自分から分厚い壁を作っているような人だった。

陽菜は思う。もしかすると、核心に触れられたくないのだろうか。だから寂しく感じるのかもしれないと。引けば簡単にかわされてしまう。それなら自分から踏み込まなくては。

「私なら、先生の存在を、言葉を伝えられます。信じてくれなくても罵られても、伝え続けます」

真っ直ぐで、純粋で、強い、陽菜のその澄んだ眼差しが巧は苦手だった。自分の醜いところまで見透かされてしまいそうな瞳に、怖い女かもしれないと勘ぐる。ジリジリと一歩ずつ確実に踏み込んできた彼女に、威勢を張るのも疲れて、いや、とても敵わないと諦めて、巧はため息をついた。

「いない」
「え?」
「会いたい人も、会いに行きたい人も、本当にいないんだ」
「いない?」
「だから伝えたいこともなにも、ない」

巧が真摯に向き合うと、それは陽菜に伝わったよう。空気の抜けた風船のように、ストンと隣に着地した。座り込んだ陽菜は、大きな瞳を見開いて二度ほどまつ毛を揺らす。

「俺のせいで死んじゃったの」

死は突然、予告なく訪れる。抗うことのできないものだと巧が知ったのは、もう二十年も前になるだろうか。ついさっきまで啖呵を切っていた陽菜は驚いて、何のことだかわからないという表情を浮かべる。巧は彼女の混乱を無視して、なるべく軽い口調で、半分独り言のように話し出した。


「俺が七歳の時、家が火事になったんだ」

ーーごく普通の家族、ごく普通の家庭。幸せの価値をよく知らない頃からもう幸せだったのに、それは一瞬で終わった。

たしかあの日は日曜日で、母親の作った昼食を家族三人で食べてから、ひとりで俺は父親の書斎に忍び込んでいた。俺の父親、国語の教師でね、書斎にたくさん本があってさ。見つかると怒られるんだけど、懲りずによく忍び込んで読んでいたんだ。難しい漢字は読めなかったけど、理解よりも文字を拾って、必死にページをめくってた。

お前が昨日選んだ本、……そうそれ。中でも一番のお気に入りで、挿絵を見ながら自分なりに空想してた。

そんなことをしていたものだから、そのまま本を抱えて寝てしまって。本来ならば麗らかな昼下がり、気づいたら火の海だった。

行き場はないし呼吸は苦しいし、もう泣くことしかできなくて。母親がその声に気づいて、書斎にいる俺を見つけたんだけど。抱き上げて逃げようとした時に、炎に襲われた本棚が倒れてきて、俺を庇って下敷きになった。

いつも優しい母親が物凄い剣幕で逃げなさいって叫ぶから、必死にその腕からすり抜けて俺だけ走って逃げたんだ。薄情者だろう?父親も母親も燃え盛る炎の中、家中、俺を探して逃げ遅れて死んでしまった。

すべて失って、たったひとつ、残ったのがその本ーー

「だから正直言うと、ごめん。俺に心残りなんて初めからなかった」


くりっとした大きな瞳から、ぽろぽろと零れる大粒の涙がドロップのように見えて笑えてくる。光に照らされて色鮮やかで、とても綺麗だった。

「なんでお前が泣くのよ。二十年も前の話だぞ?」

死にたいわけではないけれど、人間はいつ死ぬかわからないもの。もしそうなったら、仕方がないのだろうなと、それが運命なのだろうと割り切って生きてきた。事故の後、気づいたら彼女の部屋にいて、離れようにも離れられなくて、窮余の一策だった。

陽菜を見て、涙ひとつ流さない奴を助けたのかと最初は憎らしくなったし、こんな薄情な奴を助けて死んでいる自分も憎らしくなった。自分のことばかり考えているガキに、一泡吹かせてやるのも悪くないと、安易な考えで話しかけたのだ。

ところが蓋を開けてみれば、巧が思う以上に自分を責めていた陽菜。なんだか自分と重なって、放っておけなかった。それなのに遠慮を知らない彼女は、痛いところを平気で突いてきて、土足で上がり込んでくる。打算せず無駄に尽くせる陽菜の芯に、ムカつきを覚えるけれど憎めない。

「先生のせいじゃ、ないですよ」
「君はそう言うと思ったよ」

十歳も年下で、中身も行動も落ち着きのない彼女は、時々、対等に大人びたことを言う。巧が人生最後に出会ったのは、素直に人の心に寄り添える人だった。恋とか愛とかの話ではなくて、人に惹かれるとはこういう感じなのかもしれないと知り切なくなる。

「先生は私のために現れたんですね」
「え?」

陽菜は目尻をゴシゴシ擦り、その手を床に這わせて少しだけ近づいた。

「私を元気づけようとしてくれたんですよね」
「まさか。自惚れすぎだ」
「意地張らなくていいのに」

現れたあの時、優しく一番欲しい言葉をくれたのは、痛みを知っていたからだろう。あなたのせいではないと、自分も誰かに言ってほしかったからなのだと思う。

「うん、わかりましたよ。先生は、分厚い壁の向こうの弱点を見せないことで、強さを保つ人ですね」

知ったような口ぶりで言う陽菜に巧は腕を組んで偉そうに背を反らす。

「なに言ってんの?俺の弱点は料理くらいだぜ?」
「またまたぁ。そうして自分を守ってるんですよ」
「なんかヘタレみたいだから止めてくれる?調子のってると呪うからな?」
「先生はそんなことしないです」

フフッと笑い、陽菜は床に転がっていた棒付きキャンディーをふたつ拾って、その先をカチンと合わせ一番の笑顔を見せた。

「だって、先生は意地悪だけど、優しいもん」

そう言って思いっきりはにかんだ陽菜を前に、巧の開いた口が塞がらない。みるみる頬は赤く染まり、照れ隠しもできなかった。そんな巧を余所に、陽菜は持っていた棒付きキャンディーを太股へ落として、何を思いついたのかパンッと手のひらを打つ。

「じゃぁ、好きなことしましょうよ!」
「なんだって?」
「どうせなら、毎日面白おかしく過ごしましょうっ!」
「切り替え早いな」
「どうですか?楽しいほうがいいでしょう?」
「そうねぇ」

巧はため息をつきながら、そっぽを向き右手で前髪をかき上げる。いかがなものかとわくわくして身を乗り出すと、よく見たその顔はニヤリと口角を上げたものだった。陽菜は不思議そうに首を傾げる。

「先生?」
「こらそこ。先生言うの禁止」
「は?」
「いい加減肩凝るわ。プライベートまで先生やってられっかよ」
「えぇ?」

(幽霊にプライベート?そんなのあるの?いや、それ以前に……)

「会った時から先生っぽさの欠片もなかったような」
「お前、生徒っていうより当事者だったから」
「そうですね。まぁ、そうでしょうけど」
「というわけで。イーコト思いついたぞ」

陽菜は嫌な予感しかしないイーコトにたじろぎ身を引く。反対に今度は巧が身を乗り出し、人差し指をビッと立てた。

「今日からお前は俺の女だから、よろしく」
「なっ、え?」
「誠心誠意、付き合うように」
なんですって?
「昨日、自ら『せいいっぱいサポートさせていただきます!』って言ったよね」
「そういう意味じゃないんですけど」
「今だって同棲してるようなもんだろ?」
「いやいやいやいや」
「身の安全は保証されているわけだし、文句なんてあるわけないよな」
「心がズタズタになりそうです」
「面白おかしく過ごしましょう?」

言葉を反復してにっこりと微笑む巧の笑顔の裏に、黒いものがチラついているのを陽菜は見逃せない。なんでもしますと言ってしまった分際で、言い返す言葉もなく白旗を振った。

「ひどいです。ちょっと同情してたのに」
「俺に情けをかけるなんて十年早い」

自信たっぷりの上から目線で見下ろし、フフンと鼻を鳴らした巧は言う。

「長谷川先生の彼女だなんて光栄に思え!」
「こんな感情剥き出しの先生、嫌ですよ」
「教師の時はクールなんだぞ」
「そりゃ、学校に変態がいたら問題ですよね」
「失礼だな。なんにせよ、俺だって教師である前に人間だからね?最後くらいは長谷川巧として終わりたいじゃん」
「先生」

わざとらしいのだが寂しそうに眉尻を下げる巧を見て感傷に浸っていると、突然陽菜の口もとは彼の人差し指で押し止められる。何事かと驚き黙ると舌なめずりをした巧がにまにまと笑った。

「次、先生って言ったらお仕置きな」
「なんで?そんな急に無理ですよっ」
「いやらしい奴。そんなにお仕置きされたいの?」
「いやらしいお仕置きなんですか!?」

目をつむり肩をすくめなにも言わない巧に冷や汗を流す。先生がダメなら何だろうと思考を巡らせた。

「でも、じゃあ長谷川サン?」
「却下」
「え、長谷川クン?」
「名前がいいね」

(いきなりそんな、恥ずかしい!)

巧は紅潮する陽菜に詰め寄ると、耳もとで自分の名前を囁く。

「はい、言ってみて」
「た、たくっ」

肩を震わす巧は絶対に面白がっている。煽るように迫られて、陽菜も負けじと涙眼に睨みつけた。

「巧……サン?」
「誘ってる?」
「変態!」
「まぁ、いいか。俺が恋愛というものを教えてやるよ」
「勉強でも教えてくださいよ」

面白おかしく過ごすために、半ば無理矢理カップルが成立した。こんなの彼の思う壷じゃないかとあくせくしつつ、そんな中でも陽菜は、思い上がりかもしれないけれど、やっと隠れていた彼を見つけられたような、長谷川巧という人に触れられたような気がして、嬉しい気持ちもあった。

陽菜は願う。どうかこれから過ごす彼との世界が、少しでもあたたかなものであるようにと。