ーーピピピピ、ピピピピ、ピ

「ん~、あとじゅっぷん」

カーテンの隙間から覗く朝日がまぶしい。条件反射で時計のアラームを止め、再び眠りに落ちる。全身に酷い疲労感が残っていて、瞼はやけに重く、とにかく気だるかった。

「陽菜、起きてる?」
「はぁい」

母が朝食を作る台所から聞こえる陽菜を起こす声。いつも通りの朝。寝ぼけ眼でよろよろとベッドから降り、寝間着を脱ぎ捨てる。

「あ」

ふと目に入ったのは身体に巻かれた包帯。それは昨日起きたことが夢ではないことを物語っていた。左手を伸ばし、触れようとしたところではっとする。

「あれ、先生が?……夢?」

いったいどこまでが現実で、どこまでが夢なのかと首を傾げる。たしかなしるしにそっと触れ、じんと広がった鈍い波紋に顔をしかめながら、だんだんと冴えてくる頭で記憶を手繰り寄せた。

「うーん」
「おはよう」
「うーん?」
「よく眠れたみたいだな」
「え?」

手繰り寄せている最中、陽菜のすぐ側から聞こえたのは母の声でも自身の声でもなく、そもそもこの家の住人にはいない男性の声。振り返るとつい先ほどまで陽菜が寝ていたベッドの端に声の主はいた。

「せ、せんせっ」

陽菜は勢いよく一歩後退り、ローテーブルにふくらはぎをぶつけへたり込む。反対に、巧はしれっとした顔で長い足を組んで座っていた。

「言ったろ。成仏するまで付き合ってもらうからな」

巧はそう言いにっこりと微笑む。つまり今、陽菜の目の前にいる彼は、そういうことなのだろう。陽菜は肩を震わせた。

「ゆ、幽霊なんですか?」
「だろうな」

誰のおかげでこうなったんだと言わんばかりに睨みつけられ、あまりの堂々とした幽霊ぶりにたじろぎ言いよどむ。しかし今後のためにも相互確認は必須だった。

「本当に死んじゃったんですか?」
「生きていたら、こんなところにはいないだろうね」
「成仏するまでっていうのは?」
「多分、俺があの世に旅立つまで的なやつ」
「そんな曖昧な」
「俺だって気づいたらここにいたんだ。知るかよ」

フンッと鼻を鳴らしふて腐れる巧は、いまいち理解しきれていない陽菜にひとつため息をついてから言った。

「俺も突然死んだものだから、一応心残りとかあるわけよ」
「あ……」
「だからその時がくるまでしっかりサポートしてくれれば、心置きなく成仏できるかもって感じ」
「その時まででいいんですか?」
「一生憑いて回ってほしいわけ?呪われたいの?」

考えただけで恐ろしいと、陽菜は思いっきり首を横に振り拒否する。

「せいいっぱい、サポートさせていただきます!」
「よろしい」

その宣誓に満足したのか、巧は偉そうに口角を上げ、茶色がかった柔らかそうな髪をかき上げた。

「それにしても、助けたガキがこんなにミニマムだとはがっかりだな」
「ミニマム?」
「せめてこのくらいのセクシーなお姉さんだったらよかったんだけどねぇ」

両手でしなやかな曲線を描きながら、それでも意味のわからない陽菜に巧は真面目な顔で続けた。

「だから。バスト、ウエスト、ヒップ」
「え」

恐怖よりも怒りをふつふつと感じはじめた時、巧はまたひとつため息をつく。わずかに視線を下げた後、心底残念そうに言った。

「お前じゃ目の保養にもなんねーし」
「は?」

なにがだと彼の視線の先をたどると、陽菜はたちまち言いようのない恥ずかしさで顔を真っ赤に染め上げる。脱ぎ捨てた服と手近にあったワンピースを胸もとに寄せ集めて反論した。

「変態!」
「なんだって?」
「こっち見ないで!」
「ガキには興味ありませんが」
「下着見といてなにを!」
「据え膳食わぬは男の恥だろ」
「先生ってこんな人だったの!?」

まるで昨日の夜の彼とは別人のようで、一夜にして自分の湿っぽさも後ろめたさも消え去ってしまう。悪びれる様子もなくへらへらと毒づいてくる巧の隙をみてワンピースを被り、震える指先で背中のファスナーを引き上げる。陽菜があくせくしていると、クスクスと笑い声が聞こえた。

「落ち着けよ」
「だって、セクハラしたくせに!」
「ガキには興味ないって。俺レベルになると発展途上じゃ物足りないの」
「ずいぶん上から目線ですね!」
「ほら、俺って格好いいだろ」

陽菜は自分で言うかと呆れながらも、初めてまじまじと巧を見る。

切れ長の目に高い鼻、すらりと引きしまった身体にタイトなクールビズ仕様のスタイルは、スタイリッシュで魅力的。よくかき上げる柔らかそうな髪も、清潔感のあるさらさらした髪質で好印象。教師としての彼も授業が楽しくてわかりやすいという評判を耳にしていた。

幸か不幸か、陽菜は話したことすらなかったけれど、容姿端麗さが煽って女子生徒の人気者。年齢も二十代なのでなおさら親近感がわく。爽やかに微笑んでいれば憧れてしまうのも納得で、ほんの少し見惚れてしまった。

「惚れるなよ」
「はぁ!?」

しかしこれは本当に噂の長谷川先生と同一人物なのかと、ギャップの激しすぎる事実を受け入れるには時間が足りない。優しかったと思った翌朝の巧はまるで別人で、性格にもいささかならず問題がある。

ただことは重大で、陽菜は先生が死んでしまったという夢をみたわけではなかった。すべてが現実に起こり、そのビッグウェーブは生々しい爪痕を残したということ。陽菜はしゅんとしてため息をついた。綺麗に巻かれた包帯は穢れのない白で、握り潰したくなる。鷲掴んでそうしてみたら、ずきんと刺さる辛酸に泣きそうになった。

「どうした、痛いのか?」

激痛に顔を歪めているようにも見えたその行動に、巧は少し高いトーンで心なしか早口に言った。

「痛いならちゃんと病院に行けよ」
「大丈夫です」

昨晩眠りに就く間際、優しかった人を垣間見る。陽菜が頬を染めて笑顔を作ると、巧はビッと人差し指を立てて条件を付け加えてきた。

「ただし、なるべく若くて美人な看護師がいる病院へ行け」
「変態」
「違う。目の保養だ」

(あぁ、この人、筋金入りの変態か)

陽菜は熱が引いて凍りつき始めた表情筋をさすりながら、無言で巧に背を向ける。部屋のドアを開け母のいる台所へ歩き出したところで、巧は無視するなよとぶうたれながらついてきた。


「おはよう、陽菜。身体は大丈夫?」
「おはよう。平気だよ」
「よかった。ごめんね、母さんもう出るから」
「あ、うん」

2DKの古いアパートで、いつもは母とふたりきり。しかしその空間にふらふらと歩く巧が映り込む。母は普段と変わらずで、やはり陽菜にしか見えない幽霊のようだ。

「名前、ひなっていうの?」
「はい。相沢陽菜、二年生です」
「……どうしたの、陽菜」

自己紹介もしていなかったと、ぺこりと頭を下げるそこには、母から見れば食器棚があるだけ。眉を寄せて訝しげに見守る母にかまわず、巧はおちょくって口を出してきた。

「うちの陽菜ちゃん、頭おかしくなっちゃったのかしら」
「ちょっと!やめてくださいよ」

食器棚に怒る陽菜を、母は不思議そうに見つめる。

「陽菜、大丈夫?」
「なんでもない!大丈夫だよ」
「夏休みだし、今日はゆっくりしていなさい」
「うん。いってらっしゃい」

なんとかごまかして母を送り出すと、玄関のドアが閉まると同時に巧を睨みつけた。

「もう、いきなり会話はさまないでくださいよ」
「ふふっ、見たか?あの憐れんだ顔」
「憐れんでません。心配してくれていたんです!」

ケラケラと笑う巧に陽菜は脱力して立ち尽くす。ベッドへ戻ってもう一度寝てしまいたいと思うが、そんな陽菜の願いは台所を指差す巧によって砕かれた。

「ほら、出かけるから。さっさと朝食食べろ」
「え?出かけるってどこに?」
「文句言うと呪うぞ」
「すでに呪われている気がします」

巧の視線が気になり、朝食もまともに喉を通らないまま家を出る。外は気持ちいいほど快晴で、初夏の清々しさに包まれていた。

しかし炎天から降り注ぐ可視光線は猛烈。出がけに適当に荷物を詰め込んだショルダーバッグから、ハンカチを取り出し額の汗を拭う。目的地も告げずに、すたすたと先を行く巧の後を必死に追いかけた。時折、揺れるワンピースから覗く包帯に視線を感じる。せめてサマーカーディガンくらい羽織ってくるべきだったと、自分の無頓着さを悔やんだ。

気がつけば、駅の改札を出た交差点。赤色の信号を見てふたりは立ち止まった。行き交う人の多いこの場所は、昨日のことが嘘のように人も車も流れている。陽菜はぽつりとつぶやいた。

「なにも、なかったみたい」
「ん?」
「あんな事故があったのに、いつもと変わらないから」
「ほー、俺を前によく言えるな」

巧の刺さる視線に、陽菜は慌てて両手で口を覆う。また浅はかなことを言ってしまったと自責した。

「お前って、思ったことはすぐ口に出るタイプだろ」
「すみません」

ただ陽菜はあまりにも寂しかった。隣に立つ彼は陽菜にとってたしかに存在しているのに、今彼を見ているのは世界中でひとりだけ。彼だけかき消されたみたいで寂しかった。

信号を待ち、前に立つおじいさんも、その隣の会社員も、斜め後ろで友達を楽しそうに話をする子供達も、みんなそれぞれ家族があり大切な人がいて、一緒にいると幸せでいなくなったら悲しくて。一生懸命、生きている。

「家族や恋人のところへは、会いに行かないんですか?」
「マジで酷なことを言う奴だな。彼女なんていたらとっくに呪い殺してるそ」
「えっ」
「いや、タチの悪い女だったら俺が出る幕もなく、今頃リアルに殺されているかもな」
「こ、怖いです。でもなおさら、ご家族は?」
「は?」
「先生のご両親とか」

陽菜がただひたすらに見つめていると、巧は急に悲しそうな顔をして俯いてしまった。

「そんなに俺にどっか行ってほしい?」
「そういうわけじゃ」

巧は視線を下に向けたまま力なく言う。少し長めの前髪が表情を隠して、余計に切なく見えた。

「やっぱり、幽霊に憑きまとわれたら迷惑だよな」
「違いますっ」
「俺の心残りなんて、お前には関係ないもんな」
「そんなことありません!」
陽菜は気が咎めて、誤解を解こうと必死に否定した。
「先生の気持ちのほうが大事だし、私のところでいいならいくらでもいてください!」
「本当か?」
「はい!」

思いがようやく通じたのか、顔を上げてくれた巧を見て陽菜は後悔する。

「じゃ、なんの問題もないよなぁ?」

沈痛な面持ちはいずこへ、言いくるめて悪魔のように笑う巧に完敗し言葉を失う。赤から青へ変わった信号を合図に、巧は鼻歌を歌いながら歩き出した。


件の目的地は学校だった。お互いに、昨日たどり着くことができなかった場所。校門を通り、中央昇降口から中へ入るとすぐに職員室がある。夏休みに入った校内は人影がなく、スリッパを履いて擦り歩く陽菜ひとりの足音が響いた。

遠くから吹奏楽部の音色や、運動部のかけ声が聞こえる。陽菜は職員室のドアの引き手に手をかけ巧を見た。

「なにをするんです?他の先生に怪しまれませんか?」
「そうだな、待ってろ。中を見てくるから」

そう言うと、巧はスッと職員室の壁に身を滑らせて消える。陽菜が驚いて二度ほど目をまばたくうちに、進行をうながす少し間抜けな声が聞こえた。そっとドアを開けて首を突っ込み中を見回すと、巧以外に誰もおらずもぬけの殻。

「先生たち、みんな夏休み?」
「部活とか講習中じゃないか?教員に夏休みなんてないぞ。忙しいんだからな」

陽菜の呑気な質問に気を悪くしたらしく、眉間にしわを寄せた巧に怒られた。

「お前は夏期講習の希望しなかったのか?」
「貴重な夏休みですから!」
「だからこそ勉強するんだろうが」
「いえ。高二の夏は今しかありませんので」
「なにをするかは自由だけどな。でもここで中弛みするかどうかで差が出るんだぞ」
「そんなことよりっ!」

陽菜はパンッと両手を弾けさせる。職員室という雰囲気が、長谷川先生スイッチを入れたのだろうか。学校の先生らしいお説教が始まったので、慌てて話題を変えた。

「幽霊って便利ですね。壁抜けの術みたい」

忍者のポーズを作り明るく笑うと、巧は一瞬目を見開き、頭を抱えて深くため息をつく。

「その代わり、触りたくても触れないけどね」
「あ」
「だから、わざわざお前を連れてきたんだけどね」
「すみません」
「変に気を遣われるよりはいいけどさ」

多分なおさら、巧は物を無視せずに机の島と島の間の通路を通る。そして自分のエリアまで行くと、右手をひらひらさせて陽菜を手招いた。

長谷川先生の机の上は、教科書や辞典がブックスタンドに挟まれきちんと並んでいた。まるで彼がいまだに存在しているかのようで釈然としない。それは巧も同じだった。

「なんかこう、花とか飾ってくれないのかな?」
「それっ、私も思いました!」
「正直な奴だな」
「あ、また私。すみません」
「よく無神経とか言われない?」
「たまに」

つい共鳴して盛り上がった陽菜を、巧は少し呆れた表情で睨みつけ、なにやら腕を組み考え始める。

「あー、うん。大体わかった。それが君の良いところだよ」

陽菜は心の中で、人間味ならず幽霊味のないその態度にも問題があると思うのだけれどと苦言を呈す。深みのない口振りだから引き金になるのだが、反論できる立場でもないので静かにのみ込んだ。

「ここ開けて」

巧が指名したのは、机の右側の小引き出し。そっと開けると、赤いマジックやボールペンが一式と、クリップや付箋、印鑑など、きっと必需品であろう文房具類が収納トレイで綺麗に整頓されていた。

几帳面さをうかがい知り感心したところで、似つかわしくないいくつかの棒付きキャンディーが目に入る。凝視していると、透けた指先がさえぎり、手前のスペースに収まる鍵を指差した。

「その鍵取って。あとついでに飴やるよ」
「これ、先生のですか?」
「俺の机に入っているんだから、俺のだろ」
「先生が食べるんですか?」
「あ?残念ながらもう食えないけど?」

巧の顔には、またこのパターンかと書いてあるのがわかる。が、しかし陽菜の焦点はそこではない。親指と人差し指で白い棒を摘み取る。その白い棒の先と、隣で腕組みをする仏頂面の巧を見やった。

(にっ、似合わない!この偉そうな先生がキャンディーをっ!しかも棒付きを食べるなんて!)

想像するとどうしても可笑しくて、込み上げる笑いを陽菜は必死にこらえた。

「なんだよ、ニヤニヤして」
「だって、ふふ。先生も可愛いところあるんですね」
「お前な!先生をバカにすんな」

持っていた棒付きキャンディーで、くるりと円を描きひけらかす。以外にも頬を染めて照れた巧に、陽菜はドキッと胸を高鳴らせた。

「生意気な奴め。次行くぞ」
「どこへ行くんですか?」
「黙ってついてきなさい」

足早に学校を出て、駅方面へと向かう巧を追いかける。再びあの交差点で赤信号に立ち止まった。

「飛び出すなよ」

先ほどのお返しか嫌味たっぷりに言われ、陽菜はもごもごと昨日のいきさつを話し出した。

「昨日はバイト先に忘れ物を取りに寄ろうと思っていて」
「バイト?」
「高校の近くのコンビニで。それで急いでて」
「かなりいいスタートダッシュだったぞ」
「ありがとうございます」
「バカ。褒めてねぇよ」

巧はあからさまにガクッと肩を落としてから、青を確認して歩みを進めた。

「で。忘れ物ってなに?」
「数学のレポートです。朝一で提出しないと、私の夏休みが補修になるところでした」
「でも結局は間に合わなかったんじゃないの?」
「と、思っていたんですけど。実際は教室に忘れていたみたいで、友達が提出してくれたそうです」

事故の心配とレポートの行方については、親友からスマホにメッセージがきているのを見たばかり。巧がいる手前、返信に時間を割くことはしなかった。

「お前は夏休みのために必死だったと」

陽菜はこくんと頷く。あの時に戻れたらどれほど良いか。考えてみればこんなくだらないことで他人を巻き込んだ自分を愚かだと思う。さすがに巧も怒るだろうなと、こわごわ覗き見る。案の定巧は青筋を立てていた。

「くだらない。そんなんでもし本当に死んでたら、救いようのないバカだぞ」
「え、私ですか?」
「私デスヨ。ん、まさか俺がバカだって言いたいのか?」
「い、いいえっ」
「私生活から改めろ。母親が泣くぞ」
「はい」

陽菜は複雑だった。どうして軽口をたたけるのだろう。なぜ陽菜を責めないのか、それどころか心配ばかりではないか。深く考えてもそんな彼の胸中はわからない。

巧と同世代の男性が、すれ違い様に彼の肩とぶつかるけれど、ふたりともなんの抵抗を受けることもなく、空気が動くこともない。二、三歩先を歩く巧を陽菜は眺めた。

広い背中の向こうには、町並みや人混みが透けて見える。けれども陽菜は巧の真っ白なワイシャツを目で捉えた。

もしかすると、近づけば彼の香りがするのかもしれない。そう思い、一歩分、距離を詰めてみる。時々、柔らかそうな前髪をかき上げるその涼しげな横顔に、不覚にも頬が火照った気がした。


無言のまま駅の改札を通り、少し空いた電車で一駅のところ。電車を降り五分も歩けば、綺麗なマンションやアパートが立ち並んでいた。

巧はその中のひとつのアパートの階段を登っていく。続く陽菜のサンダルの音が、タンタンと響いた。先に行った巧が、一番奥の部屋の前で、どうぞとばかりに手を差し出す。

「ここは?」
「俺ん家」
「えっ!?」
「鍵、開けて」

思いがけない言葉に陽菜は一歩身を引いた。

「いやいや、誰かに見られたりしたら……」
「鍵開けて入るんだから平気だろ」
「でも、部屋に誰かいたら?」
「俺死んでるのに誰がいるんだよ。逆に怖いじゃねーか」
「家族の方が来てたり」
「しないから。さっさと開けろ」

陽菜はしぶしぶ鍵を挿そうとするが、手が震えてうまく鍵穴に入らない。

(幽霊とはいえ長谷川先生の家なんてっ。いくらなんでもドキドキする!)

「あ、わかった!男の部屋とか初めてなのか」
「うるさいです」
「幽霊相手になにを緊張してるんだよ」
「だって、だって!」
「心配すんな。俺はガキには興味ないから」
「もうっ、お邪魔します!」

陽菜は震える鍵先を無理矢理ねじ込み、重いドアを開く。そうして一歩踏み入れると、初めて感じる香りが鼻をくすぐった。背中を追いかけながら抱いた、多分これが彼の香り。胸の中で疼いた甘い鼓動を振り払うように、荒々しくサンダルを脱いだ。

「……綺麗」

部屋の中を一通り見渡して、学校で見た巧の机を思い出す。無駄なく綺麗に片付いた広いリビングはモノトーンで統一されていて、落ち着きのある陽菜の部屋とは無縁の大人の空間。立ち入ってしまって良かったのか、疎外感に苛まれた。

「てっきり私、部屋の片付けでもさせられるのかと」
「お前の部屋を見た後じゃ、絶対に頼めない」
「ひどい」

たしかにここまで綺麗な部屋ではないけれどと、ムッとしながらも違和感に首を傾げる。少なくとも昨日までは人が住んでいたはずなのに、生活感がないというか、どこか機械的な空間だった。

「一人暮らし、長いんですか?」
「十年ちょっとかな」
「もしかして地元は遠いですか?」
「なんで?」
「あまり誰かが遊びに来たりとか、ないような感じだから。どことなく寂しいというか」

陽菜が感じたそのままを述べると、巧は急に瞳を大きくし押し黙る。不思議に思い覗き込むと、スッと顔を背けられた。

「そんなことより、用があるのはそこの部屋」
「えっ」

ドアを開けて、陽菜は思わず赤くなる頬を両手で覆った。目に飛び込んできたのは大きなベッド。重い色合いのカーテンに閉ざされた寝室は物々しい。

「いやらしい女だな。そういうのが目的か」
「はぁっ!?」
「こんな不埒な生徒がいたとは」
「誤解です!」
「うわー。俺まで恥ずかしくなってきた」

巧は身を守るように両手で自分の身体を隠すが、身を守りたいのは陽菜のほうだった。

「先生が紛らわしいんですよ!」

いちいち小さな芽を摘んでいやらしく広げる巧が絶対的に悪いと思う。しかし話を聞いていないのか、巧はついさっき流した質問に答え出した。

「そうだな、たしかに人は呼ばないな。別れた後が面倒だし」
「別れた後?」
「未練がましく押しかけられたら迷惑じゃん」
「はい?」
「香水臭いベッドで寝るのも嫌だしな」
「えっ」
「ははっ!顔真っ赤。ガキのくせに興味津々だな」

ボンッと顔から火を噴かせる陽菜を見て楽しそうにケラケラと笑う。陽菜はとりあえず落ち着こうと深呼吸するが、残念ながらそれは逆効果で、より深く感じる彼の香りに優しく抱きしめられているような錯覚を覚える。くらくらと目眩がしてきて、激しく首を振り雑念を払った。

その勢いで見つけたのは、天井まである大きな本棚にびっしりと詰まったたくさんの数々。たとえるならば図書館の一角に、陽菜は駆け寄り壮大な頂きを見上げた。冷静になると、そこは本の世界だった。

「すごいっ!そういえば国語の先生でしたね」
「そういえばって」

巧はため息をつき、並ぶ本の背に優しく手を添える。触りたくても、触れない。愛おしむようなその姿に、どうしようもなく胸がしめつけられた。

カーテンの隙間から不意に差し込んだ光がキラキラと星を降らせる。その儚さはまるで彼の命のようで、陽菜は懸命に見つめた。

「人生最期に読書でもしようかなって思っているんだけど」
「はい」
「カッコイイ?」
「はぁ、そうですね」
「で、どれか一冊選んでよ」
「私がですか?」
「ページをめくるのはお前なんだし。途中で寝られたら困るだろ」
「でも先生のための読書なのに、私が選ぶなんて」
「なんでもいいから。好きな本を選びなさい」

ふざけているのかと思えば、急に真面目な顔をする。今まで知らなかったけれど、きっとこれが長谷川先生なのだろう。ほんの少し、授業を受けてみたいと思った。

「本当に、どれでもいいんですね?」

棚には分厚い辞典や文学史に名の上がる本が並ぶ。普段読書なんてしない陽菜には、ハードルが高いものばかり。どれを開いても難しそうで頭痛がした。

うなりながら、慎重に一冊ずつ厳選していく。やがて難しそうな漢字の並ぶ本棚の一番端に、そぐわないタイトルの背表紙を見つけた。手に取ると、その可愛らしい表紙に心が奪われる。

ぽつんとたたずむ王子様。どこか寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。紙は黄ばみ、端はぼろぼろに煤けていたが、とても大切にされているように感じた。この本は、ずっと彼と時を過ごしてきたのだろうか。

「あぁ、いいんじゃない?」

思いを巡らせていると静かな声が降ってきて、びくりと肩を震わせる。いつの間にか隣で見下ろしていた巧は、穏やかに微笑んだ。

「よし。決まったし帰るか」
「他には、なにかないんですか?」
「なにかって?」
「私にできること」
「ない」

きっぱりと言い放たれて言葉を失う。あれほどごねていた心残りが、まさかこれだけなんて腑に落ちない陽菜はその場を動けない。

「私にできること、ねぇ。はたしてお前にこの俺を満足させることができるのか」
「帰ります!」

ベッドへと目配せする巧の、意地悪な笑みと怪しげな目つきに、ただならぬ要求を悟る。視界から逃れようと急いで玄関へ向かった。足をサンダルに押し込んで、わたわたと部屋を出る。戸締まりを確認し、役目を終えた鍵をバッグにしまおうとしたところで、それは阻止された。

「鍵はポストにでも入れておいて」
「え?でも、そしたらまた来れませんよ?」
「あぁ、もう用はないから」
「でも」
「お前まさか先生の部屋に入り浸る気か?」

巧は笑って言ったけれど、簡単に手放していい物だとは思えなかった。本当に、彼のすべてが終わってしまうような、もう戻れないような気がした。

「ほら、行くぞ」

真夏の太陽に照らされて痛く光る小さな鍵を、ドアポストの隙間にそっと滑らせる。静かな部屋の暗い箱に落ちたそれは、光を失った。

駅までの道すがら、陽菜は貰った棒付きキャンディーをバッグから取り出す。溶けてべたついた包装をパリパリと剥がして、口へ放り込んだ。コーラの味がした。