ーー巧さんへ

あれから約半年が経ちました。今日から私は高校三年生です。

お別れしたあの日、実は学校をお休みしてしまいました。でもそれは巧さんにも責任があります。私を泣かせたのは、確実にあなたなのですから。

でも、それ以来は早起きをしているし、道路も飛び出しません。夜道と変な人にも気をつけています。部屋だってピカピカですよ?そうそう、勉強も頑張っています。苦手な数学も。

それと、泣きながら書いた読書感想文はA評価をもらいました!アドバイスのおかげですね。あ、今偉そうにフフンと鼻を鳴らしましたね?お見通しです。

我ながら、大分成長した自信がある今日この頃。時々思うのです。あなたに逢えたなら、あなたのところへ行けたなら。私の弱さを受け止めるのは、あなたであってほしいのです。

あなたが残した物語は、私があなたと生きた証。私はまだ、あなたを思って生きています。

吐き出した気持ち。郵便屋さんも困るかな。封筒の宛先は、Dear my darling.ーー

彼との楽しかったひとときを夢で見た。彼を思わない日はないけれど、こうして夢に見るのは初めてで、まだドキドキと胸が高鳴っている。

「陽菜、起きてるの?」
「あっ、お母さん」
「早くご飯食べなさい」
「はぁい」

今朝はなんだかすっきりしない。まだ夢の中にいるみたいだ。卵焼きを箸で突つきながらため息をついた。

「今日から三年生ね」
「うん」
「うふふ。楽しみね」
「お母さん?」
「なんでもないわよ。ほら食べちゃって」
「いただきます」

いつにも増して上機嫌な母に首を傾げる。ここ数ヶ月、思い出し笑いをしたり、鼻歌を歌ったりしているところをよく目にしていた。心なしか肌艶が良いというか、ずっとそんな調子で、良い人でも見つけたのかなと気になって入るのだけれど、なかなか聞くこともできず、話してくれるのを待つばかり。

母が幸せになってくれるのなら大歓迎なのだが、でも好きな人がいるというよりは、アイドルに夢中のような雰囲気で、年甲斐もなくキュンキュンしている。

(お母さん、私に似て騙されやすいから、変な人じゃないといいんだけど)

「ほら、いってらっしゃい!」
「いってきます」

元気に送り出され、いつか彼と歩いた道をひとり歩く。学校への通学路も駅の改札も、交差点も。陽菜は微かな記憶にすがっている。どこかにフラッと現れる気がして、いつも彼の面影を探していた。だから季節が変わるにつれ、寂しくなった。

彼のことはもちろん覚えている。忘れはしない、忘れるはずがない。けれどももう、記憶に残る彼の声がたしかに彼の声か、わからない。感じようとすればするほど、わからなくなっていく。

彼の時は止まってしまったのに、自分の時は動いている。生きているだけで遠ざかる。そんな自分が大嫌いだった。

春休みの終わった学校は、新入生や進級した生徒で賑わっていた。三年生はクラス替えもなく、いよいよ受験生。

押し込まれるように講堂へ詰まった全校生徒。出入口が塞がると、間もなく始業式が始まった。だいたい退屈なこの時間。以前の陽菜なら、屋上で居眠りしていたかもしれない。欠伸をこらえつつ目に涙を溜めて、校長先生の話を聞き流す。

うとうとし始めた頃、後ろに並ぶ茜に髪を梳かれた。

「伸びたね」
「うん」

彼といた時間を知っているものは、なるべく無くしたくなくて伸ばし続けた髪。少しは大人っぽくなったかな、なんて見せたい人はいないのに、そんなことばかり考えている。

「やっぱりサボればよかったね」
「うん」
「新入生、カッコイイ子いるかな」
「えぇ?」
「後で一年生見に行かない?」
「興味ないよ」
「じゃ、新任教師!」
「はぁ?」
「イケナイ恋したい」
「興味なし」
「もう、陽菜ってばそればっかり」

こそこそと耳打ちする茜に陽菜は曖昧な返事をする。佐野への気持ちは吹っ切れたらしい。元気になって良かった。そして次の恋を探している。陽菜もよく誘われるけれど、とてもそんな気持ちにはなれなかった。朝起きたときにもし部屋に彼がいたら、浮気だって騒ぐから、なんて建前だった。

立ち直れない、前を向けない。平気になってしまう日がくるのが、まだ怖い。胸を張って言えるのは、それだけ愛せる人がいたということ。

「続いて、先生方の紹介です」

茜みたいな生徒が多いのだろうか。進行が進むと、ざわざわと渦が起きた。

「この度、復帰することになりました。長谷川巧です」

(おかしい。夢の続き?)

驚きすぎて、彼の名前以外何も耳に入らなかった。今日は彼の夢を見たから、自分にだけ幻が見えたのかもしれない。

(うん、きっとそうだ)

あんなに泣いて別れたのだ。あり得るわけがないと自分を落ち着かせる。それにしてものあまりの衝撃に、陽菜はとうとう屋上への階段を上がってしまった。

あの夏以来、近寄れなかった内緒の場所。

(なんてひどい夢)

気分転換に校庭で咲き誇る桜の木を眺めた。柵に寄りかかり、ため息をつく。ひらひらと星屑のように散らばる花びらが、彼と最後に見た花火のようで、胸の奥をキュッとしめつけた。

「こら。ここは立入禁止だぞ」
「……え」
「まったく、新学期早々。サボり癖は直らないのか?」

頭が真っ白になった。予想だにしない事態に思わず後ずさる。しかし柵ギリギリでこれ以上後ずらされないとわかると、そそくさと出口へ向かった。

「おい、なぜ逃げる」
「私、頭おかしいのかも」

出会った時のように淡々と話す彼は、とても本物だとは思えなかった。ドアノブを握りしめると、追いかけてきた彼がバンッとドアを押さえる。陽菜は恐る恐る振り返った。

「成仏できなかったんですか?」
「生身の人間だっつの」

巧はわざとらしく深く息を吐いて前髪をかき上げる。片手をドアについたまま、陽菜を見下ろした。陽菜が巧の影に圧されるのは初めてだった。

(本当に、本物?)

「なんで?」

状況がまったく理解できずに、陽菜はへなへなとその場に座り込む。目の前によく陽菜のベッドに座り組んでいた長い足を見た。

「お前、始業式で俺の話聞いてなかったの?」
「はい。名前しか記憶にありません」
「えー」
「自分が夢でも見たのかと思って。いえ、まだ夢だと思ってます」
「まぁ、たしかにそうなるのか?」

巧は少し考えた後、陽菜の隣に座り込んだ。そして、透けてないだろと手をかざして陽菜に見せる。

「お前の前から消えた後、気がつくと病院のベッドの上だった」
「え?」
「意識不明のまま、辛うじて生きてたらしい」
「意識不明?生きてた?」
「お前と過ごした記憶は鮮明にあったから、リアルな夢を見たのかとも思ったんだけど」
「夢……」
「目覚めた日がお前の誕生日だったし、卵焼きにネギ入ってたし、俺が知ってるお前の性格のまんまだったし」
「はぁ」
「道理で事故現場にも机にも、花が上がらないわけだよね」
「あぁ、なるほど」

相変わらず偉そうに上から目線で押し通されると、陽菜はすんなり納得してしまう。それに、こんな奇跡みたいなことが起きるなんてと、驚きのほうが強かった。

「お前、気づけよなー」
「もともと巧さんが勝手に死んだと勘違いしたんでしょ?」
「だってよ、あんなスカスカの幽霊みたいな身体だったら、死んだって思うじゃん」

多くの問題点は外からの情報を阻害していたからだ。陽菜自身、学校でもその話題は聞かないようにしていたし、時が経つにつれて噂もなくなっていったから、知らないままだった。けれども陽菜の刃は巧へ向いた。

「巧さんの嘘つき」
「え?」
「大嘘つき!私の流した涙と哀愁に満ちた半年を返して」
「え」
「バカ!セクハラ!変態教師!」
「ちょ、声デカいって」
「うえーん」
「な、泣くな」

飴やるから、とポケットから出したのは、コーラの棒付きキャンディー。食べ物を出せば簡単に釣れると思っているのか、そんな簡単な性格ではないと陽菜は怒る。

「私がどれだけの思いでいたか!」
「悪かったって」
「自分だけ情報握ってるなんて、ずるいです!」
「ごめん」
「私、半年も知らないで……って、ん?」
「どうした?」
「そういえば、私の性格も誕生日もどうやって知ったんです?卵焼きにネギが入っていることだって」

普通そんなこと、学校の先生ではわからない。巧に再会した動揺でサラッと聞き流すところだった。そうはいかないと陽菜は巧を睨みつける。巧は視線を空に投げた。

「体調が落ち着いてきた頃、毎日見舞いに来てる人がいるって教えられて」
「毎日?」
「そんな人に心当たりなかったから、名簿見せてもらったんだ。そしたら・・・・・・」
「そしたら?」
「毎日欠かさず『相沢』の文字があった」
「えっ!?」
「お前の母親、すげぇなって思った」
「私、知らなかった。私には何も」
「会えるようになった時、初めて少しだけ話した」
「そうだったんですか?」
「その時はひたすら謝られて、お礼言われて。俺の両親にも会いたいって」
「えっ、でも」
「身内とかいないって断ったら、次の日からも毎日、着替えやら何やらせっせと」
「え。まさかご迷惑をおかけしたんじゃ?」

さすがに毎日通われたらうんざりするだろうと、陽菜が謝ろうとしたら巧は頬を染めてポリポリと頭をかいた。

「いや、なんか嬉しかった」
「え?」
「あの卵焼きも差し入れしてくれた」
「お袋の味?」
「うん、実は食べたかった」
「ネギ食べられたんですか?」

巧は何も言わずにピースを作る。陽菜がふふっと笑うと、その笑い方、母親そっくりだと言われた。

「いろいろ話すうちにお前のことも聞けたしな」
「えっ」
「夏休み明けてから、ずっと早起きなんだとか?」
「約束しましたから」
「勉強もしてるとか。感想文、初めて良い評価もらったとか?」
「なんでも知ってるんですね」

(私は巧さんのこと、ひとつもわからなかったのに)

陽菜はだんだん悲しくなってきた。自分だったら、会いたくて会いたくてたまらない。一言でもいいから伝えたい。

「それならそうと、教えてくれても良かったのに」
「黙っててもらったんだ」
「え?」
「お前、頑張ってるのにさ。邪魔したくなかったんだよ」
「か、彼氏とできちゃったら、どうするつもりだったんですか」
「それならそれで、良いと思った。お前が未来に進むなら、かまわないかなって」

陽菜は知っている。巧がそういう人だと。だからこそ、そんなふうに言われたら怒れなかった。

「母親には四月から復帰って伝えて、その時俺が話すからってことで」
「はっ!」

陽菜は今朝の母の機嫌の良さを思いだした。同時に、母を騙していた変な人についても合点する。

「巧さん、よくも私のお母さんをたぶらかしてくれましたね」
「誤解だっ」
「最低!」

メラメラと燃えてきた陽菜を制するように、巧がすっと立ち上がり立ちはだかる。本物に見下ろされると、陽菜はつい頬を赤くしてしまった。

「あのなぁ、俺だって我慢したんだぞ」
「え?」
「俺が一番触りたかったの、誰だかわかるよな?」
「えっと」
「そろそろ限界」

差し出された手に、震える手を伸ばす。

(いいのかな、いいんだよね?)

ゆっくりと時間をかけて、初めて指先が触れ合った。

「わっ」

その感触に驚いて離れると、ぐいと手を引かれた。幻の中で重ねた手のひらが温もりを感じる。温かくて力強くて、目頭に熱いものが込み上げた。

「幽霊じゃないのに、私でいいんですか?」
「お前は、生きて一緒にいたい人」
「私もう、離れたくないですよ?」
「うん」

最後に声に出せなかった言葉。伝えても良いだろうか。

「巧さん、あの時からずっと大好きです」
「俺も陽菜が大好きだ」

ぐっと力強く引き上げられた身体は、瞬く間に彼の身体に包まれていた。目を大きく見開いた陽菜の心臓の音が、次第に大きくなっていく。やがて彼の胸に抱き寄せられた陽菜の耳は、もうひとつの心音を捉らえる。

「巧さん、生きてる」

絞り出すようにつぶやくと、腕の力が緩み目と目が向き合った。驚く陽菜に優しく微笑んだ巧は、大きな両手で陽菜の頬を包み込む。陽菜が恥ずかしくて顎を引くと、それを追いかけて愛が触れた。

「生きてるよ」

そしてもう一度。二度目の愛は、深くて狂おしかった。


「水族館、誰かと行った?」
「まさか!」
「じゃあ、あと一年、我慢して」
「もちろんです」

指切りをすればほら、ふたりの小指は簡単に絡まり合う。これからはきっと、優しい恋の物語。