「んん、あつい」

陽菜が玄関先で倒れ込んだ後、幸運なことにすぐに母が帰宅した。やはり熱が高かったらしく、ベッドに寝かせられてからまだ一度も目を覚まさない。うわ言はいろいろと言っていたが、ほとんど巧に関することだった。巧は目覚めたらからかってやるのを楽しみに、早く良くなるよう額に張りついた髪をなでる。


日付はとっくに変わり、朝の五時を過ぎていた。母は一時間前に様子を見にきて、そのまま仕事へ出たようだった。母が額に手を当ててため息をつく。その様子だとあまり下がってはいないのだろう。

「いっつもひとりにさせてごめんね」

ぽつりと呟いたその一言で、巧はひなの強さに合点した。強がりだと言っても過言ではないかもしれない。紙一重だった。


正午を回り少し落ち着いた寝息になってきたと思った後、覚醒は急だった。

「はっ!巧さん!あれ、私!?」
「落ち着け。家帰ってぶっ倒れたんだよ」
「えっ!?そういえばいつもより調子が変だったかも?」
「ナントカは風邪ひいても気づかないんだね」
「大した風邪じゃないので気づかなかっただけです!」
「へー。ところで何度?」

起きてすぐ、取り合えず熱を測るよう枕もとの体温計を諭したのだが、電子音が鳴っても一向に脇から外そうとしない往生際の悪さ。未だに高騰した頬と虚ろな目、顔を見ただけで明らかに熱があるとわかる。爽やかに笑って睨むと、目をパチパチさせて体温計を差し出した。

「まだ高いな」
「平気です!もうなんともないです」
「別に強がらなくていいのに」
「強がってません」

そう言い張って、陽菜は突然身体を起こし始めた。

「おい、何してんだ」
「起きれます」
「まだ寝てろって」
「治りました」
「んなわけないだろ」
「大丈夫です」
「いい加減にしろっ!」

巧は何度制止をかけても起き上がろうとする陽菜に、気づけば覆い被さっていた。陽菜も反射的に体制を崩して倒れ込む。至近距離で見つめ合うと、濡れた瞳が揺れていた。

「辛い時は、辛いって言えよ」
「でもっ」
「なにもできないけど、俺は側にいられるんだから」
「……はい」

きっと幼い頃から、心細い思いをしてきたのだろう。素直に心配をかけられずに、平気なふりをしていたのだろう。何か言いたげに唇を動かしたが、すがるように巧を見つめたまま、何も言わなかった。巧は身体を起こし、熱が取れることを祈りひなの額に手をかざす。

「でも、巧さん。ひとりでいるのは寂しいですよ」
「それはお前みたいなガキだけじゃないの?」

ひとりでいるのが寂しいのは自分だろうなと、巧はわかっていた。ガキだと受け流したことを少し後悔する。多分この子はひとりでいることの寂しさをよく知っているから、そこからの置き換えての配慮なのだと思った。

けれども巧からすれば、一緒にいられるのなら別になんてことはない。ましてや、陽菜をひとりにするよりは全然いい。

「ならこのまま、熱が下がらなければいいのにな」
「なにバカなこと言ってんの」
「だってそうすれば、巧さんずっといてくれるんでしょ?」
「バーカ」
「それにいつもより、ちょっとだけ優しいし」
「そうか?とにかく、ずっといてやるから、もう少し寝なさい」

巧がそう言うと、力なく微笑み安心したように眠りについた。


それから、高熱で倒れてから二回目の朝を迎える。陽菜はベッドに横になったまま、巧に体温計を見せつけた。熱も下がり、もうすっかり身体は軽い。

「うーん。まだ微熱」
「本当にもう平気なんですけど」
「はぁ、仕方ないな」
「じゃあ」
「添い寝してやろう」

頭での理解が追いつかないうちに、巧は陽菜の寝ている隣へ転がり込んだ。至近距離で見る彼は体勢のせいか色っぽくて、陽菜は目のやり場に困り視線を泳がせる。後ろを向こうとすると、間髪入れずに却下された。

「こら、こっち向け」
「あああ、あのぅ」
「なにか?」

恐る恐る見上げると、さらりと揺れた巧の髪と襟もとの少し開けたシャツが目に入る。星空の下で寝転がった時とは違う、魅惑的な雰囲気。近くで聞く彼の声は、いつもよりトーンが低い気がした。陽菜はくらくらして、また熱が上がってしまいそうになる。

「お望み通り?」
「子供をからかわないでください」
「あれ?ガキ扱いしないでほしいんだろ?」
「いつの話を!」
「うわ言でずっと俺の名前呼んでたくせに」
「えっ、嘘!」
「本当。さて、どうしてくれようか」

ニヤリと笑う巧の左手に頬を撫でられ、そのまま彼の親指が唇を這う。陽菜は恥ずかしさのあまり動けず、濡れた瞳で巧を見つめ上げるしかできなかった。

「なんでそんな、うるうるしてんの」
「だって、こんなの恥ずかしいです」
「お前な」

余裕だった巧の顔が仏頂面になり、わずかに頬を赤くする。

「俺としても大人扱いしたいんだけど」
「えっ」
「ヤバイよな、俺。これ以上のことしたいとか思ってる」
「わ、私……も」

じわりじわりとふたりの距離が縮まっていった時、トントンと突然部屋をノックする音が響いた。

「陽菜、起きてる?」
「おっ、お母さん」
「熱はどう?」
「うん。もう下がったよ」
「良かった。母さん仕事行くわね」
「いってらっしゃい」
「あ、お粥作っといたから食べてね」
「ありがとう」

静かにパタンとドアが閉まると、ふたりのため息が共鳴した。陽菜がベッドの下を見ると、さっきの拍子で巧が落ちている。

「大丈夫ですか?」
「精神的にキツイ」
「あはは」

巧は頭をポリポリかきながら、床に座り直して頬杖をついた。


三日ほどベッドの上で過ごし、清々しく目覚めた今日は晴天。部屋の窓をガラリと開けて、弱い風と残暑の蒸し暑さを取り込んだ。巧が四六時中側にいてくれたおかげで、強制的に休み、陽菜は完全復活を果たす。両手を伸ばし背伸びをした。

「うずうずしますねぇ」
「落ち着きのない奴」
「だって、夏休みは後ちょっとしかないんですよ!もったいないです。どこに行きましょう!」

嘆くよりも楽しまなくてはと、わくわくしながらプランをリストアップしていると、巧が顎に手を当てて鋭い目つきになった。

「いや、待て。お前宿題やったのか?」
「え」
「夏休みあと三日だぞ!?」

巧の凍りつくような視線に、肩をすくめて目を逸らす。

「課題あるよな?テキスト広げたところなんて一度も見たことないぞ」
「なんか巧さん、学校の先生みたいですよ」
「先生だっつの!」
「やだもう。前にプライベートは教師じゃないとか言ってたじゃないですか」
「やってないんだな?」
「私、学校始まったら居残りしてやるタイプなんですよ」
「ダメ。やりなさい」

ピシャリと言いつけられ、しぶしぶテーブルに課題を広げる。陽菜が家で宿題をするなんて小学生以来だった。絶対にギリギリまで取りかかれないタイプというか、提出期限を過ぎて怒られながら居残りする人だ。陽菜は深く大きくため息をついた。

「大した量じゃないだろ」
「やらなきゃいけないと思うと、やる気がなくなるんですよね」
「よし。じゃあ、二教科終わったら遊びに行こう」
「えっ、頑張ります!」

陽菜はなるべくすぐに終わりそうな量の教科を選んで問題を解きはじめた。

「でも、こんなに終わるわけない」
「まだ始めて十分だそ。集中力がないのか」
「巧さん、教えてくださいよ」
「それはずるいだろ」
「国語の先生なのに古典苦手なんだ?」
「調べるだけでしょうが」
「そっかそっか。苦手なら無理しなくていいですよ」
「あのな」

古典のプリントで躓いていた陽菜が挑発すると、それまで暇そうに監督していた巧が身を乗り出した。ぎょっとして身を引くが、すかさず距離をつめる。鼻と鼻が触れそうなくらい近くで、巧は舐めるように首を傾げた。

「どうしてもって言うなら、報酬をいただかないと」
「じ、自分でやります」
「よろしい」

陽菜は巧が見守る中、プリント数枚を片付けた。調子よくこんな簡単に終わるなら早くからやればよかったと、できもしないことを思う。しかしやる気のモチベーションは巧で、飽きてくるとやんわりと注意を戻してくれるのだ。居残りの先生みたいに無理強いするわけではないのに、進んで取り組める不思議。

「巧さんが担任の先生だったら、ちゃんとできたかも」
「俺はこんな手のかかる生徒ごめんだね」
「うっ」
「まぁ、お前バカだけど。馬鹿ではないから、素直に勉強すれば伸びるよ」
「誉めてるんですか?バカにしてるんですか?」
「五分五分」

ボスッと投げたクッションが壁に当たりずり落ちる。巧にはひょいと避けられてしまうし、例え当たっても害はないしで、陽菜はむっとして頬を膨らませた。

「この傲慢さ、人気の長谷川先生びっくり事件ですよ」
「事件ってほどじゃないだろ」
「だって、本性は意地悪だし変態だしセクハラだし女好きだし」
「こらこら」
「みんなが知ったら泣きますよ」
「別に」
「じゃあ格好よく見せたかったんですか?」
「はぁ?本当にうるさい忠犬だな」
「ちゅ、私、犬!?」

犬扱いされ、信じられないと目を見開く。巧はふんっと鼻を鳴らし傲慢そのものに腕を組んで陽菜を見下ろした。

「あえて言うなら、セクハラでも女好きでもない。女が寄ってくるだけ」
「嘘!セクハラばっかりしてます」
「格好よく見せたいのではなく、事実俺はカッコイイ」
「意地悪と変態は否定しないんですね」
「生徒にちょっかい出したり、バカにしたりなんてしない」
「ふーん?」
「わかんねー奴だな」
「はい?」

私のことは散々バカにしているくせにと、陽菜は横目で睨む。すると巧は盛大なため息をついた。

「つまり、お前はトクベツなの」
「えっ」
「んで、出かけるんだっけ?」
「えっ、あ、はい」

何事もなかったかのように部屋を出て行ってしまう巧の背中を、陽菜は慌てて追う。トクベツ、という言葉をそっと胸に抱いてはにかんだ。


こうして始まった勉強会二日目。今日は夜アルバイトがあるので巧との時間を過ごすために急がないとと意気込む。

「はい、では相沢さん。今日の目標をどうぞ」
「地理と公民のワーク、数学を終わらせます」
「おぉ、いきなり増やしたな。できるのか?」
「ワークには答えがあるので、全部写すだけなんです!」
「おい」
「やらないよりはいいでしょ?」
「まぁ、はい。んじゃ始め」

巧がパンッと手を叩き、課題地獄が始まる。地理と公民は一時間ほどで終わったのだが、問題は数学。とにかく苦手で教科書を読み直しても理解できない。

「はぁ」
「なに息詰まってんの?」
「巧さん、国語じゃないなら教えてくれますか?」
「え?」
「数学、ダメですか?」

巧が弱いらしい上目使いで遠慮気味に見つめ上げると、ほんのり頬を染めてため息をつく。解き方なら教えてくれるという巧は、やっぱり先生みたいで、女子生徒の憧れを独り占めして少しだけ優越感を感じた。何よりも国語の先生なのに、数学の教え方がわかりやすくて驚く。

「すごい!数学の先生よりわかりやすいです」
「バカ。一対一でやってるんだから頭に入りやすいだけだろ」
「そうかなぁ?」
「まったく。どうせ居眠りでもしてたんだろ?ちゃんと授業受けてればできるはずだぞ」
「おっしゃる通りです」
「んじゃ次。これは今やったところの応用」

その後も、ビシビシと指導されて無事アルバイトの時間までに終わらせることができた。


熱で寝込んでいたので久しぶりの出勤。佐野とシフトが一緒だということもあり、陽菜は重い足取りのまま家を出る。道すがらため息をつくと、巧に助言を受けた。

「普段通りが一番いいよ」
「え?」
「振られたほうは、変に気遣われるよりいつも通りのほうが安心するって」
「はい」
そういうものなのかな、と納得しふと気づく。
「巧さんも振られたことあるんですか?」
「は?」
「経験者は語る?」
「ねーし。降ったことはあるけどな」
「巧さん、いろんな人とお付き合いしてそうですもんね」
「え?」

ちょっとしたヤキモチから嫌みを言うと、意外なことに面白いようにたじろいだ。

「俺もう二十七だぞ。それなりにひとりやふたり……」
「そうですよね。三人や四人、五人六人、当たり前ですよね」
「そうそう。って、おい」
「そっか」
「え」
「いいんです。私なんて、本当に子供だし」
「いや、だから」
「宿題もまともにやれない、ましてや勉強を教えてくださいなんて。巧さんの彼女としてはレベル低すぎますよね」
「そんなの関係ないだろ?」

俯くと巧は泣いていると思ったらしく、妙にしおらしくうろたえるので、陽菜は少し申し訳ない気がした。

「巧さん、ふふふ」
「え?」
「騙されましたね」
「なんだって?」
「いつも私をからかってくれるお返しです!」
「コノヤロウ」

好きだという言葉を伝えられなくて、こうして気持ちを確かめ合うふたりは似ているのかもしれないと、陽菜は思う。それがお互いの支えになっている。

『佐野先輩、私はーー私の時間のすべてをかけて、支えたい人がいるんです』

素直な気持ちで佐野に伝えた言葉。彼にはいつか言えるだろうか。


夏休み最終日、陽菜は達成感に満ちていた。巧は呆れて瞼を半分閉じる。

「奇跡ですね!」
「奇跡って」
「巧さん、ありがとうございました」
「いいか、すぐに終わる量なんだからな?毛嫌いしないで少しずつでもやりなさい」
「はい」

毎朝、朝食を食べた後、テーブルを挟んで巧の前に座り課題を始める。少したつと息抜きに陽菜は彼の顔を盗み見る。肘をつき無表情のまま視線を落としている彼は、何を考えているのだろうかと思案する。

そして、わからないところを懇願すれば、彼の綺麗な指先が教科書を辿る。その落ち着いた口調と指先は、巧さんではなくきっと長谷川先生。普段の巧との違いが、陽菜の心を疼かせた。

「巧さんがいれば、いくらでも勉強できますよ!」
「俺はお前の家庭教師じゃねー」
「もちろんです。巧さんは私の大切な、大切な」
「え」
「大切な、もう必須アイテムです!」

巧の顎を載せていた手がガクッと外れる。陽菜は誇らかに、もう一度大切です!と鼻息を吹いた。

「最近言うようになったな。そうか、お仕置きを熱望か」
「え、なぜ」

じりじりと距離を詰める巧。この黒い笑い方をした巧を止める術を陽菜はまだ知らない。ゴクリと生唾を飲み、捕まってしまうと知りながらも、なるべく後ろへと後ずさった。


そうして課題地獄を乗り切った夜、久々にふなり並んで本を読む。巧は気づいていないかもしれないが、陽菜は読む量を減らして早々に切り上げた。

「なぁ、本当に全部終わったのか?」
「はい?」
「課題」
「終わりましたよ」
「ふーん?」
「な、なんですか」
「読書感想文」

陽菜はその言葉にギクリと肩をすくませる。国語科ならば知っていて当然の課題だった。

「全学年共通であるはずだけど」
「なんで高校生にもなって、そんなものあるんですか?」
「お前な」
「読書感想文なんて小学生の宿題ですよ」

不満そうに文句を言うと、巧も思うところがあるのかでも仕方なくと言った感じでため息をつく。

「月並みだけど、読んで考えることが大切なの。書くことでもっとその世界を思考するだろ?感じる想像する表現する、それは人としての感性、情緒を養う。人間力を育てる。だから課題にあるの」
「でも、今から本を読むのはちょっと」
「これでいいじゃん。お前はちゃんと読書感想してきたはずだぞ」

巧は陽菜の手の中にある本を指差す。

「え、でもこの本は」
「せっかく読んできたんだから」
「まだ読み終わってないし」
「んじゃ続き読もうぜ」
「嫌です!」

だんだん悲しくなっていく物語は、まるでふたりのいつかを語っているようで、できるならこのまま読み進めたくなかった。陽菜は本を抱きしめる。誤魔化すように早口で言った。

「私、その、読書感想文って苦手で!いつもあらすじで原稿用紙埋め尽くしてるんです。だから、すぐ終わるから、急がなくて大丈夫なんです。提出期限も夏休み開けてから余裕あるし」
「でも」
「ちゃんと、後で書きますから」

力なく言うと、巧はこれ以上強いることはなかった。

「じゃ、アドバイス。難しく考えないで、本の中身と自分を照らし合わせながら、思いのまま素直に書きなさい」

陽菜は小さく頷いた。

「それが唯一のお前の取り柄だろ?」
「はい!ん?」
「ははっ、んな元気に返事して」
「ひどいっ」
「ほらもう寝ろ」

陽菜は電気を消すと、ベッドに横たわりタオルケットを顔までかぶる。巧はそこに腰かけて、天井を見上げた。カーテンをすり抜けたほのかな明かりが、彼を神秘的に見せる。陽菜はそれが嫌だった。

「明日から学校かぁ。金曜日に一日だけ行くのってダルくないですか?」
「サボるなよ」
「月曜日から学校にすればいいのに」
「文句ばっか言って。寝坊すんなよ」
「よろしくお願いします」
「え、寝込み襲えって?」
「変態!」

これからも、こんなふうにいつもの巧で、側にいてほしいと願った。


「うわーん、もっと早く起こしてくださいよー!」
「俺は何回も起こしたっつの」
「そんなぁ」

駅の改札を出てひたすら走りながら、学校近くの交差点に差しかかる。足踏みの止まない陽菜に、巧は思わず赤信号だろと怒りをぶつけた。しゅんとして頭を垂れたが、反対に寝癖がぴょんと跳ねる。巧は笑いを潜め辺りを見回した。

ある意味、一番思い出深い場所。ここで陽菜を助け、巧は死に、そして陽菜に救われた。巧は考える。もしもあの事故の日に戻れるのなら、死ぬとわかっていたら、自分はどうするだろうか。

校門近くになると、陽菜を見てヒソヒソと遠巻きに噂する生徒が増えてきた。心なしか陽菜の表情も固い。決して口には出さないが、不安はあるのだろう。歩行速度も少しずつ落ちている。

「陽菜、おはよ!」
「茜!おはよう」
「ちょっと、また遅刻する気?ほら急ごう」
「う、うんっ」

ほっとしたように肩を下ろし、校舎へ駆けていく。巧はそれを静かに見送った。行きづらいのは巧もだった。

自分のいない学校を見て、憎悪にのみ込まれるのではないかと足がすくんだ。陽菜に対しても、そんな感情を抱きたくなかった。ましてや、そばにいても守れないのなら、罵倒されるかもしれない彼女を見たくない。

巧は人気のなくなった後に校舎へ入り、静かに階段を昇っていく。陽菜を待つのは、教師も生徒も近寄らない場所にしようと思った。

(こんな弱くて惨めな自分が、もしもあの時に戻れたら、か)

「俺は迷わず、また助けるだろうな」


太陽が真上に昇る頃、学校の開けてはいけない扉が開く。

「やっと見つけた!巧さんこんなところにいたんですね」
「お?」
「勝手にいなくならないでくださいよ!探すの大変でした」
「屋上は立入禁止だが」

ひとり屋上へ上がり、日向でごろごろと寝転がっていた巧。鍵がかかっている場所なので、普通ここへは誰も来ない。しかし陽菜の登場に、仕方なくむくりと起き上がり胡座をかいた。

「始業式終わってから、ずっと探してたんですよ」
「授業は?」
「そんなことより、巧さんがいなくなっちゃうから」
「お前、なぁ」
「なんですか」
「そうだよな。お前は立派な忠犬だった」

よしよしと撫でてやると、満更でもなさそうな笑みを浮かべる。ただ巧には不思議があった。

「ところで、どうやって鍵開けたんだ?」
「私と茜の秘密なんですけど」
「ん?」

陽菜はもじもじと頬を染め、髪をかき上げる。そうして耳の後ろのほうから細いヘアピンを取り出した。

「まさか」
「これで簡単に開くんですよ」
「泥棒か」
「内緒でふたりでお昼食べたり、お昼寝したりするんです」
「はぁ、さすがの長谷川先生も驚いたよ」
「あはは。内緒ですよ」
「はいはい」

一通り話し終えると巧はまた仰向けになる。陽菜も真似して隣に寝転んだ。

「いい天気ですね」
「暑くないの?」
「暑いですけど、巧さんとお昼寝したかったから」

太陽を遮る物がなにもない、屋上のコンクリート。生身の人間は暑いはず。可愛いことを言っているが、巧は自分に付き合わせて彼女の人生を曲げることはしたくない。夏休みを割かせてしまって、偉そうに言うのも矛盾しているが。

「授業はきちんと受けなさい」
「でも」
「俺はここにいるから」
「……約束ですよ?」
「うん」

いつかしたように、小指と小指を重ねた。