身代わり婚~暴君と呼ばれた辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

 アリアドネがシュミットと別れ、地下階段を上って仕事場に戻ってきた途端、マリアとダリウスが慌てた様子で駆けつけて来た。

「「アリアドネッ!」」

2人が同時に駆けつけて来たので、アリアドネは驚いた。

「まぁ……どうしたのですか? 2人共。そんなに慌てて……」

そして頭に巻き付けていたクラバットを外した。

「どうしたもこうしたも……大丈夫だったかい? 恐ろしい目に遭わなかったかい?」

マリアが心配そうに尋ねてきた。

「え? ええ大丈夫でした」

するダリウスが安堵の溜息をついた。

「そ、そうか……良かった……。アイゼンシュタット城には手癖の悪い騎士や兵士がいると言う話をマリアさんから聞かされたから君の事が心配でたまらなかったんだ」

「ダリウス……ありがとう、心配してくれて」

「ところで、その手に持っている青い布は何だい? 顔に巻いて戻って来たよね?」

ダリウスが尋ねてきた。

「ええ、このクラバットはエルウィン様が貸して下さったの」

「え? エルウィン様が?」

マリアが驚いた様子を見せる。

「……城主様が貸してくれたのか?」

ダリウスは真剣な目でアリアドネを見た。

「え、ええ? そうだけど?」

「アリアドネ。何で頭に布を巻いていたんだい? 一体何があったのか説明して貰えるかい?」

「はい。実は……」

マリアの質問にアリアドネは答えた。城で何があったのかを……。



「まさか、そんな事があったなんて……本当に無事で良かったよ。あんたは器量良しだから、心配していたんだよ」

話を聞き終えたマリアはアリアドネをギュッと抱きしめた。

「心配して頂き有難うございます」

今ではマリアはまるでアリアドネの母親の様な存在になりつつあった。

「だけど城主様がアリアドネを助けたなんて……信じられないな……」

ダリウスが首をひねる。

「おや? あんたは『アイデン』の領民なのに、エルウィン様の事をまだ暴君だと思っているのかい? 乱暴だけどね、優しいところもある方なんだよ?」

マリアの言葉にアリアドネも賛同する。

「ええ、そうですね。私もエルウィン様は恐ろしい方だと思っておりましたが、今日お会いして分りました。優しい一面を持ち合わせているお方なのだと」

「アリアドネ……。そんな……まさか、あの辺境伯に……?」

ダリウスの最後の言葉は小さすぎて、マリアとアリアドネの耳には入って来る事は無かった――


****


 アリアドネと別れたシュミットはエルウィンの執務室の前に立っていた。

(エルウィン様は執務室を出られた時は訓練所に行くと仰っておられたが……もう戻られているのだろうか?)

――コンコン

シュミットは扉をノックしてみた。

『……誰だ?』

扉の奥からエルウィンの声が聞こえて来た。シュミットはまさか本当にエルウィンがいるとは思わず、少しだけ驚きつつも声をかけた。

「私です、シュミットです」

『入れ』

間髪開けず、エルウィンの声が聞こえて来た。

「失礼致します」

カチャリと扉を開けて室内へ入り、驚いた。何とエルウィンが机に向かい、仕事をしていたのだ。
その姿にシュミットは驚いてしまった。

「エルウィン様、一体どうされたのですか? まさかお仕事をされているとは思いもしませんでした。訓練所へ行かれる予定で執務室を出られたはずでしたよね? なぜこちらに戻って来られたのですか?」

するとエルウィンは機嫌が悪そうにシュミットを見た。

「何だ? お前は一体……。いつもなら人の顔を見る度に仕事をしろと言ってくるくせに、いざ仕事をすれば驚くし。お前は俺が一体どうすれば納得いくのだ?」

「い、いえ。エルウィン様が真面目に仕事をして頂くに越したことはありませんが……何故ですか?」

シュミットは自分の席に座ると質問した。

「ああ、真面目に仕事をすれば早く終わる。早く終われば領民達と話が出来るだろう?」

エルウィンは書類から目を離さずに言った。

「え……? 領民達と……?」

その時、シュミットの頭の中にエルウィンの言葉が蘇ってきた。

『叔父上はこの領民に興味を持ってしまったようだ』

(そうだ、エルウィン様はアリアドネ様の事を領民だと勘違いしておられた。でも……まさか……?)

すると不意にエルウィンが声をかけてきた。

「シュミット」

「はい、何でしょうか?」

「下働きの者達と領民達にハンドクリームを支給してやってくれ」

「え……? ハンドクリームを……ですか?」

「何だ? 文句あるのか? それ位の予算が組めないのか?」

ジロリとエルウィンはシュミットを睨み付けた。

「い、いえ。そんな事はありません。直ちに手配致します」

「ああ。早急に頼む」

そしてエルウィンは再び書類に目を落とした。そんなエルウィンを見つめながらシュミットは思った。

(エルウィン様……もしや……アリアドネ様の事を……?)

しかし、その事をエルウィンに尋ねる事など、到底出来るはずは無かった――


 エルウィンがランベールを恫喝してから数日が経過していた。

アイゼンシュタット城の周囲はすっかり深い雪に包まれていた。
城門は固く閉ざされ、完全に外界から孤立していた。
吹雪も止むことが無く1日中吹き荒れ、城の外へ出る者はもはや1人もいなかった。


「話には聞いておりましたが、アイゼンシュタット城は本当に過酷な環境下におかれているのですね」

仕事の合間の休憩時間にアリアドネはお茶を飲みながら窓の外を見つめた。

「ええ、そうね。始めてここで冬を越すアリアドネには驚きかもしれないわね」

ここの使用人達の中では比較的アリアドネと年の近いセリアが返事をした。

「それにしても危ないところだったわね。兵士たちどころか、ランベール様にまで見つかってしまったのだから。本当に無事で良かったわよ」

マリアがクッキーをつまんだ。

「はい、エルウィン様が助けて下さったおかげです。それで……あの……」

「ああ、分かってるって。もうシュミット様から話は聞いているから。本当はアリアドネはエルウィン様の妻になるべく、ここにやってきたんだろう?」

イゾルネがアリアドネを見つめる。

「はい、そうです。ですが、正確に言えば本来は姉がエルウィン様に嫁ぐ予定だったのですが、父に私が身代わりとしてアイゼンシュタット城へ行くように命じたのです。私は……妾腹の娘でしたから」

一緒にお茶を飲んでいたマリア、イゾルネ、セリアはいつしか黙ってアリアドネの話を聞いていた。

「エルウィン様が妾腹の人間を嫌っているという事も、妻を必要としていなかった事も、お会いして始めて知ったのです。それなのに私のような者が押し掛けて来てしまったので、エルウィン様はさぞかしお怒りになってしまったのでしょうね」

「それは違うよ、アリアドネ」

イゾルネが否定する。

「ああ、そうだよ。エルウィン様が妻を必要としていないのは恐らく3年前の事件がきっかけだと思うんだよ」

マリアがアリアドネの肩に手を置いた。

「3年前……? アイゼンシュタット城が敵国から攻められた時の話ですよね?」

「ああ、そうだよ。あの時奥様は敵国に捕らわれて人質になってしまったのさ。それで城主様は奥様を助ける為に剣を下ろし、殺害されてしまった。それどころか奥様まで敵国は手にかけ、そこへエルウィン様率いる騎士達が現れて敵の制圧に成功したのだけど……」

マリアがそこで言葉を切り、再び続けた。

「城主様と奥様の葬儀の時、エルウィン様は言ったんだよ。『敵に弱みを握られない為に自分は妻も娶らず、子も成さないとね。だからね、エルウィン様はアリアドネのことが気に入らなくて、この城を追い出したわけじゃないんだ。色々な事情があって、この城にはいないほうが幸せになれると考えたから、追い出したに決まってるよ」

「そうだったのでしょうか……。でも確かにそれ程恐ろしい方では無のでしょうね。あ、皆さんにお願いがあるのですが……」

アリアドネは3人を見た。

「ええ、分かってるわよ。貴女の事はエルウィン様には内緒。宿場町から避難してきた領民という事にしておけばいいのでしょう? そしてエルウィン様の前ではリアと呼べばいいのよね?」

セリアが言った。

「はい。その様にお願いします」


 その時、地下通路の方から声が上がった。

「エルウィン様……! どうされたのですかっ!?」

(え? エルウィン様……?)

アリアドネが声の聞こえた方角を見ると、地下通路に続く階段付近で男性寮の責任者と談笑しているエルウィンの姿があった――



 エルウィンは1人、使用人達と領民達が仕事をしている仕事場へとやって来ていた。彼の右手には大きな麻袋が下げられている。

 地下通路へ続く階段付近で丁度仕事をしていた男性寮の責任者、ビルはすぐにエルウィンの姿に気付き、駆け寄ってきた。

「これはエルウィン様ではありませんか。この様なむさ苦しい場所へわざわざ足を運ばれるとは一体どうなさったのですか?」

「ああ、実はお前たちに配給したい物があって持ってきたのだ」

エルウィンは麻袋をビルに手渡した。

「え? これは一体……?」

袋はずっしりと重かった。

「中を見ても宜しいでしょうか?」

「勿論だ」

「それでは失礼致します」

ビルは袋の中に手を入れ、1つ取り出してみた。

「これは……?」

それは手の平サイズの小さなガラス瓶に入ったクリームだった。

「ハンドクリームだ。人数がどれほどいるのか分からなかったので、とりあえず50程用意させて貰った。足りないかもしれないが今の所用意できたのはそれだけだったのだ。また用意でき次第こちらに持ってくるので、とりあえず手荒れが酷い者達に優先的に配ってくれ」

エルウィンの言葉にビルはすっかり感動してしまった。

「何と温かいお言葉なのでしょう。まさかエルウィン様が直々に持ってきて下さるとは感激です」

「いや、そんなに大袈裟にしなくていい。他の者が皆忙しそうにしていたので、代わりに俺が届けに来ただけだから」

笑みを浮かべながら答えるエルウィン。

しかし、それは真っ赤な嘘であった――


****

「……全く、いつになったら俺の仕事が減るのだ?」

 エルウィンはイライラしながら机の上に山積みにされた書類を見ながら呟いた。

 彼の本来の役目は兵を率いて、自ら先陣を切って戦うのが務めであった。
心優しい父は辺境伯という立場にありながら、あまり戦いを好むような人物では無かったからである。


「くそっ……こんなことをしているくらいなら、剣の手入れをしている方がずっとマシだ……」

ブツブツ言いながらもエルウィンは仕事をしていた。

「シュミットの奴め……こんなに仕事が溜まっているのに一体どこへ行った?」

エルウィンのイライラは、まさにピークに達しようとしていた。

その時――


ノックの音と共に、シュミットの声が聞こえてきた。

『エルウィン様。宜しいでしょうか?』

「ああ……入れ……」

エルウィンは手元にあったシーリングワックスを握りしめながら返事をした。

「失礼致します」

カチャリと扉が開かれた瞬間エルウィンはシュミットの眉間めがけてシーリングワックスを投げつけた。

シュッ!

空を切る音が聞こえた瞬間。

パシッ!

シュミットは飛んできたシーリングワックスを右手で受け止めた。

「……チッ! 運のいい奴め……」

「いいえ、お褒めに預かり光栄です。それでどうでしたか? 今の動きは?」

「そうだな……越冬期間に入り、お前の身体がなまっているのではないかと思ったが、大丈夫そうだな?」

腕組みするとエルウィンはニヤリと笑った。
実は、これはシュミットとエルウィンの間で行われる一種の反射神経を鍛える為の訓練でもあった。
時にはシュミットがエルウィンに対し、今のような行動を取る事もあるが、第三者から見れば非常に驚かれてしまう事もしばしばだった。

「ところで今迄何処に行っていた? 仕事が溜まっているというのに。それに足元にある麻袋は何だ?」

エルウィンはシュミットの足元に置かれた麻袋を見た。

「ええ、実は以前お話されていたハンドクリームが50個用意できたので、今から配りに行く予定なのです」

「よし、なら俺が代わりに行こう!」

エルウィンは勢いよく席を立った。
彼はもういい加減、椅子に座って書類に目を通すのにうんざりしていたのだ。

「えっ? 何ですって? エルウィン様自ら行かれるのですか? こんなに仕事を残して?」

「うるさい! 少しくらい息抜きさせろっ!」

エルウィンはシュミットの前に立ち、麻袋を拾い上げた。

「では、ちょっと行ってくる」

そして大股で執務室を出ていってしまった。

呆然とするシュミットをその場に残し――




 エルウィンが寮長のビルと話している姿をダリウスも見つめていた。

彼は仲間達と一緒にお茶を飲んでいた所、エルウィンがやってきた事に気づいたのである。

(あ……あの人は辺境伯……。まさかアリアドネに会いに来たのだろうか? 一体何の為に……?)

「どうしたんだ? ダリウス」

その時、同じ領地からやってきた仲間の妻子持ちの男性が話しかけてきた。

「あ、いや……城主様が来ているなと思ってね」

「そうだな。珍しい事もあるものだ。あまり城主様はここに顔を出さないのにな。話によると、越冬期間中に溜まっていた書類の仕事が忙しいとかで、滅多に足を運ばないのに今年は余裕があるのかな? 領主になって3年目だし」

「そう……なのかな?」

そして残りのお茶を一気飲みすると席を立った。

「どうしたんだ? ダリウス。まだ休憩中だぞ?」

「ああ、分かってる。ちょっと知り合いの女性の所へ行ってくるんだ」

「ああ、あの娘か? しかし、いつの間にあんな若くて美人な女性が下働きとして働いていたんだろうな?2 人は仲が良くてお前が羨ましいよ」

「いいのかい? 奥さんも子供もいる人がそんな事言っても」

「え? じょ、冗談だって。本気で取るなよ?」

「分かってるって、それじゃちょっと行ってくる」

そしてダリウスはアリアドネの元へ向かった。



****

(エルウィン様がいらっしゃったなら……クラバットをお返し出来るチャンスかもしれないわ)

アリアドネはスカートのポケットを上から手でそっと触れた。この中にはエルウィンから借りた洗濯済みのクラバットが入っている。
いつ、エルウィンに会えるか分からなかったので、常に持ち歩いていたのだ。

(シュミット様がいらした時にお願いしようかとも思っていたけれども、あの方もお忙しいのか、ここ最近お見かけしなかったし……でも偶然ここでお会い出来て良かったわ)

以前のアリアドネなら、エルウィンの事を酷く恐れていただろう。
だが、あの時城内で2度も危ない目に遭いそうな所を助けてくれたこと。そして下働きの者達や領民達から慕われている事を知り、徐々にエルウィンに対しての恐れが無くなっていた。
第一エルウィンには自分の正体がバレていない。それも救いだった。


「どうしたんだい? アリアドネ」

マリアがエルウィンの方を凝視している事に気付き、声をかけてきた。

「エルウィン様にお借りしていたクラバットをお返ししようと思っていたのですけど……なかなかビルさんとのお話が終わらないなと思って」

「ああ、確かに話をしてるけど……別にいいんじゃないかい? 多分雑談しているだけだと思うし」

「そうですね。では私、お返しに行ってきます」

アリアドネが席を立とうとした時……。

「あらダリウスじゃないの? どうしたの?」

セリアが首を傾げた。

「え?」

驚いて振り向くと、ダリウスがアリアドネの元にやってきた。

「アリアドネ、ちょっといいかな?」

「ええ、いいわよ」

「本当かい? それは良かった。なら行こう」

ダリウスはアリアドネの右手を取ると立ち上がらせた。

「え?」

突然の事に戸惑うアリアドネ。

「まぁ……2人はまるで恋人同士みたいね」

セリアがからかう。

「そ、そんな恋人同士なんて……」
「ありがとうございます」

慌てるアリアドネに対してダリウスは正反対だ。

「向こうへ行こう、アリアドネ」

そしてダリウスはアリアドネの手を繋いだまま歩き出す。


(ん? あの後ろ姿は……)

その時、エルウィンはアリアドネがダリウスに手を引かれて歩いてる後ろ姿を見かけた。

(あれは……この間の領民か? 一緒にいる男は一体誰なのだろう……?)

「エルウィン様、どうかされましたか?」

ビルが尋ねてきた。

「いや、何でも無い。それでは俺はそろそろ城に戻る。皆にクリームを配っておいてくれ」

「はい、承知致しました」

「それではな」

「はい、エルウィン様」

そしてエルウィンは背を向けると仕事場を後にした――





 ダリウスに連れられてきたのは仕事場の奥にある倉庫だった。この倉庫には穀物や野菜、干し肉、加工品……様々な物が棚にぎっしりと並べられている。


「どうしたの、ダリウス。こんな処に来たりして。何か用事でもあるの?」

アリアドネは首を傾げた。するとダリウスは辺りを伺いながら話し始めた。

「ちょっと2人きりの大事な話がしたかったからね。幸いここは滅多に人が来るような場所じゃないし……」

「ええ、確かにそうだけど……でも大事な話って何?」

アリアドネは緊張気味の顔で尋ねた。

「うん、その前に……手のあかぎれの方はどうだい?」

「え? あかぎれ? ええ、ダリウスのくれたクリームのお陰で……見て? こんなに綺麗になったわ」

アリアドネは笑顔でダリウスに手を見せた。

「……」

ダリウスは少しの間、アリアドネの手を見つめていたがやがてそっと触れて来た。

「ダ、ダリウス?」

突然手を触れられて、アリアドネの顔が赤くなる。

「うん……とても綺麗になったね……すべすべで、色白で柔らかい」

そして両手でアリアドネの手を包み込んできた。あまり異性との触れ合いに慣れていないアリアドネは顔が赤らむ。

「ダ、ダリウス……手を離してくれる?」

「あ、ごめん。勝手に触れたりして」

ダリウスはパッと両手を離し、申し訳なさげに謝るとすぐに真面目な顔つきになる。

「実は君に大事な話があるんだ。来年越冬期間が開けたら、俺は国に帰ろうかと思ってる」

「え? 貴方は『アイデン』の領民だったのではないの?」

「『アイデン』には用事があったから一時的に暮らしていただけなんだ。でもその用事もここの越冬期間が開ければ終わりになる。だから国に帰るつもりなんだ」

その話にアリアドネの顔に悲しみの表情が浮かぶ。

「そうなの……残念だわ。折角貴方とは良いお友達になれたかと思っていたのに」

「友達……か……」

ダリウスは寂し気な笑みを浮かべ、更に声のトーンを落とした。

「アリアドネ……君は本当は下働きの者じゃないんだろう?」

「え? な、何故それを……」

「ヨゼフさんに聞いたからだよ」

「え? ヨゼフさんに? あ……そう言えば、いまどうしているの? ヨゼフさんは元気なの?」

アリアドネは越冬期間に入ってからは一度もヨゼフの姿を見ていない。何でも腰痛が酷くて仕事が出来ないので、ここでの仕事が免除されていると人づてに聞かされていた。

「勿論元気だよ。ただ腰痛が少しこの寒さで悪化しているんだけどね。今彼は男性寮の管理の仕事を任されているんだよ」

「そうだったのね……元気そうなら良かったわ。……あ、ごめんなさい。話がそれてしまったわね。続きを聞かせてくれる?」

「うん。ヨゼフさんは気さくでいい人だからね……俺も彼と親しくなってそこで誰にも秘密だと言う事で、教えて貰ったんだよ。君は本当は伯爵令嬢で、辺境伯の妻になる為に嫁いで来たって話を。けれど彼は妻を望んでいなかった。それどころか、追い出す為に剣を抜こうとしたらしいじゃないか……」

「ダ、ダリウス…」

その声には、どこかエルウィンに対して憎しみを抱いているかのような言い方だった――
「ダリウス、貴方はひょっとしてエルウィン様を良く思っていないの?」

するとダリウスは眉をしかめた。

「当然じゃないか。君だって彼の評判を知っているだろう?『血に飢えた戦場の暴君』。この屋敷で働いているのだからそう呼ばれているのを知らないはずは無い。いや、それだけじゃない。彼は戦場で打ち取った敵の大将達の首を取り、その首を前に酒を飲むのを何よりも好むと言われるような人物だからな」

「……」

 その言葉を聞いたアリアドネは気分が悪くなり、思わず眉をしかめてしまった。

「あ……ごめん。女性には少し刺激が強い話だったね。配慮が足りなかったよ」

アリアドネの様子に気付いたダリウスはすぐに謝罪してきた。

「ダリウス。私はね、この縁談が決まってお父様に話を聞くまではエルウィン様がどのような方か知らなかったのよ。そしてヨゼフさんと2人でこの城を目指して旅に出て、その道すがらエルウィン様の話を聞いてきたわ。やっぱり評判は良くは無かったし、初めてこの城へやってきた時……剣を抜かれそうになった時は本当に怖かった」

「そうだろう?」

ダリウスはアリアドネが自分の意見に賛同してくれたのだと思い、嬉しくて笑みを浮かべた。

「でもね、この間メイドさん達に連れられて城へ行った時、エルウィン様が兵士に絡まれている私を助けてくれたのよ? それだけじゃないわ。帰り道にエルウィン様が私が目立たないようにと、クラバットを貸して下さったの。これで顔を隠すようにって。そして私を仕事場まで送ってくれた時にランベール様が現れたわ。危うく掴まりそうになったところをエルウィン様が助けてくれたのよ」

アリアドネの話をダリウスは黙って聞いている。

「だからそんなに世間で騒がれているような残虐な方では無いと思うの。ただ単に、話が誇張されすぎているのじゃないかしら?」

「だけど、アリアドネ。君は戦場での彼の事を知らないから……」

「え? ダリウス。貴方もしかして参戦したことがあるの? ひょっとして兵士だったの?」

アリアドネは目を見開いた。

「いや……それは知らない。ただ、国にいた時に人づてに聞いた話なんだ。けれど俺が話したいのはそんな事じゃない。アリアドネ、越冬期間が終ったら一緒に俺の国へ行かないか?」

「え!?」

あまりにも突然の申し出にアリアドネは驚いた。

「ダリウス……本気で言ってるの?」

「勿論本気だ。アリアドネ、この城はおかしい。大体メイドが城の男たちの夜伽をするなんてあり得ないだろう? それだけじゃない。越冬期間中は娼館から10人以上の娼婦が城に住んでいるなんて普通じゃない事だ。大体、城がこんな状態になったのはエルウィン様が城主になってからなんだろう?」

「そ、それは……ランベール様が勝手にやっている事なのよ? あの方はエルウィン様の叔父だからエルウィン様の次に権力を持つ方で、歯向かえなかったと聞いているわ」

(それに……何より一番今の状況を許せないのはエルウィン様なのに……)

アリアドネはランベールに激しい怒りをぶつけていたエルウィンの姿を思い出していた。

「エルウィン様が城の者全てをコントロール出来ないのは、彼が未熟な城主だからだろう?」

「ダリウス……」

「君がヨゼフさんを残してこの城を去れないと言うのなら彼も一緒に連れてこの城を出よう。ここは君のような女性が暮らすのには不向きな場所だ」

「そ、そんな事……いきなり言われても……」

俯くアリアドネにダリウスは謝罪した。

「ご、ごめん。いきなりで、驚いたよね? だけど前向きに考えておいてくれないかな? 越冬期間が終わるまで半年近くあるから、その期間に答えを出して欲しいんだ」

しかし、アリアドネは何も答える事が出来なかった。

「……ごめん、悩ませてしまったね……。そろそろ休憩時間が終る。仕事場に戻ろう?」

「ええ……」

そしてダリウスとアリアドネは何とも気まずい雰囲気の中、それぞれの持ち場へ戻るのだった――
――ガチャッ!

乱暴に執務室の扉が開かれ、書類に目を落としていたシュミットは驚いて顔を上げた。見ると、扉の前にはエルウィンが立っていた。

「エルウィン様? 随分早いお戻りでしたね。あれ程意気込んで仕事場に行かれたので、もっとゆっくりされてくるのかと思っておりましたが?」

バンッ!

しかしエルウィンはシュミットの問いかけには答えず無言でドアを乱暴に閉めた。

「エルウィン様……?」

エルウィンはズカズカと大股で書斎机に向かい、ドサリと椅子に座ると腕組みをして不機嫌そうな顔をしている。

(ははぁん……これは何か面白くない事があったな……?)

子供の頃から付き合いのある2人だ。エルウィンの様子がおかしいことにはすぐ気付く。

「エルウィン様、何かお飲み物でも持って参りましょうか? 紅茶とコーヒーではどちらが宜しいでしょうか?」

「……なら紅茶にしてくれ。ブランデーをたっぷり淹れてな」

相変わらず仏頂面で答えるエルウィン。

「何ですって? ブランデーたっぷりの紅茶? それは駄目です!」

あまりの発言にこれには流石のシュミットも驚いた。

「いいだろう!? ブランデー入りの紅茶位! ケチケチするなっ!」

「私は別にケチだから申しているのではありません! こんなに仕事が溜まっているのに昼間からブランデーなんておやめください!」

シュミットが何故ここまで反対するかと言うと、これには訳があった。

ここ、『アイデン』は世界中でも稀に無い程に冬が厳しい場所である。その為、人々は度数の強いアルコールを好んで飲んでいる。当然ここで製造されたブランデーはかなりの強さなのだ。仮に酒に弱い女性が一口でも飲もうものなら、あっと言う間に酔い潰れてしまう程である。

「チッ……相変わらず堅物人間め……ならいい。コーヒーで我慢してやる」

舌打ちするエルウィンにシュミットは笑顔で答えた。

「はい、かしこまりました。コーヒーですね? 少々お待ち下さい」

シュミットは立ち上がると部屋を出て行った。

自らコーヒーの準備をする為に……。



****

「えっ!? シュミット様が自らコーヒーの準備をされに来たのですか!?」

白いコックコート姿に赤毛の男が驚きの表情を浮かべる。彼はアイゼンシュタット城の厨房の料理長だった。

「そうです。忙しいところ悪いですがお湯を沸かして頂けませんか?」

「ええ。そりゃお湯ぐらいすぐに沸かしますよ。お待ち下さい」

料理長は返事をすると厨房の奥へと向かった。厨房では10人前後の料理人達が皆、忙しそうに食事の準備を行っている。

シュミットはお湯が沸くのを待つ間、ティーセットの準備を始めた――


****

シュミットはワゴンを押して長い廊下を歩いていた。すると、丁度向かい側から剣の訓練を終えたスティーブがこちらへ向かってやって来た。

「ん? シュミット。お前、何所に行ってたんだ?」

足を止めたシュミットは答えた。

「ああ、エルウィン様にコーヒーを淹れて差し上げようかと思ってな」

「え? それって……お前が淹れたコーヒーを大将が飲むって事だよな?」

シュミットがコーヒーを上手に淹れる事が出来ると言う話はアイデンシュタット城では有名だった。そしてスティーブはコーヒーが大好きだったのだ。

「勿論そうだ」

頷くシュミット。

「なら執務室へ行けばお前の淹れたコーヒーを俺も飲めるって事だよな?」

「まさかついてくるつもりか?」

シュミットは眉をひそめた。

「ああ、勿論だ。いいいじゃないか~ケチケチするなって」

「ケチケチ……」

「何だ? どうかしたのか?」

「いや、先程エルウィン様に飲物のリクエストを尋ねたところ、ブランデーたっぷりの紅茶を所望されたのだ。勿論、断ったがな」

「げっ! 昼間から酒を希望するとは虫の居所が悪そうだな?」

「そうなんだ。下働きの者達に自らハンドクリームを手渡しに行くと言って、機嫌良さそうに出て行ったのに戻ってきた時は不機嫌だったんだ」

「何? ハンドクリーム?」

スティーブの眉が上がる。

「……これは面白い事が起きているかもしれないな……」

スティーブのつぶやきにシュミットは首をひねる。

「面白い? それは違うぞ。今エルウィン様は不機嫌なんだ」

「いいから、いいから! 早く大将の所へ行こうぜ! 折角の湯がぬるくなるだろう?」

「そうだな」

そして男2人は足早に執務室を目指した――
「エルウィン様、お飲み物をお持ちしました」

シュミットは扉をノックしながら声をかけた。

『入れ』

直ぐに返事が返って来たのでシュミットは扉を開けた。

「失礼致します」

扉を開けて室内に入ると、エルウィンは書類に目を通していた。
その姿を目にしたたシュミットは目を丸くした。まさか、自分の不在中にエルウィンが仕事をしているとは思わなかったからだ。

「へ~…大将も真面目に仕事をされるんですね」

後ろからヒョイと顔を出して来たスティーブが笑顔でエルウィンに声をかける。彼は生真面目なシュミットとは違い、身分関係なく誰にでも気軽に声をかけるタイプなのであった。

「何だ、お前も来ていたのか? 何の用だ?」

ジロリとエルウィンはスティーブを睨み付けると、すぐに難しい顔を浮かべながら再び書類に目を通し始めた。

「お前の言う通り、確かに機嫌は悪そうだがそれにしては真面目に仕事をしているじゃないか?」

スティーブはシュミットの耳元で囁いた。

「おい、スティーブ。全て聞こえているぞ?」

地獄耳のエルウィンにはしっかりスティーブの台詞が耳に届き、不機嫌な顔つきで睨み付けていた。

「えっ!? も、もしかして聞こえたんですかっ!? た、大変失礼致しました!」

スティーブは頭を下げて謝った。

「まぁ、いい。それよりシュミット。直ぐにコーヒーを淹れてくれ」

「はい、かしこまりました」

シュミットは室内に入ると、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。



****


 上座に座ったのはエルウィン。そしてテーブルを挟み、シュミットとスティーブが座り、3人でのティータイムが始まっていた。

「ふ~美味い。大将、やっぱりシュミットの淹れるコーヒーは最高っすね」

スティーブがコーヒーを飲みながらしみじみ言う。

「そうだな。やはり戦場で飲むコーヒーとは全然違う。コーヒーを飲むなら我が城が一番だな。尤も本当はブランデー入りの紅茶が飲みたかったのだが」

ジロリとエルウィンはシュミットを恨めし気な目で見る。

「エルウィン様。お酒でしたら就寝前にどうぞ浴びる程ご自由にお好きなだけお飲み下さい。ただし、翌日の業務に差し支えない程度でお願い致しますね」

「誰が浴びる程飲むか。大体来る日も来る日も書類の仕事漬け……一体いつになったら俺はこの業務から解放されるんだ?」

シュミットの言葉にエルウィンが反論する。

「う~ん…それは大将が越冬期間に入るまで仕事をさぼっていたツケが回ってきたんじゃないですかね~」

「スティーブッ! 俺は別にさぼってなんかいなかったぞ? ただ、今回は越冬期間に入る直前にカルタン族との戦があっただろう? その後陛下が褒美として妻を娶らせてやるなどと訳の分からない書簡をおくりつけてくるから業務が手に着かなかっただけだ」

エルウィンから出て来た『妻』の話に、シュミットとスティーブがピクリと反応する。

「そう言えば、あのステニウス伯爵の娘はどうなったのだろうな……」

「さ、さぁ……き、きっとどこかで元気に暮らしているんじゃないですか!?」

エルウィンの呟きに焦りながらスティーブは答えた。

「ええ、エルウィン様が気にされる事はありませんよ。お元気でいらしているはずですから。それよりもハンドクリームは喜んで頂けましたか?」

シュミットも早くこの話を切り上げたく、話題を変えた。

「ハンドクリーム? あぁ……すごく喜んでくれていたな……」

しかし、腕組みして答えるエルウィンは増々機嫌が悪くなってくる。

(そ、そうだ……エルウィン様はハンドクリームを届けに行って……ご機嫌斜めで戻っていらしたのだった……!)

シュミットは今更ながら、自分が失言してしまったことに気付いた。するとすかさずスティーブがエルウィンに尋ねた。

「ところでエルウィン様、何故突然下働きや領民達の為にハンドクリームを配ろうと思ったんですか?」

「そ、それは…」

エルウィンはそこで言葉を切った――


 一瞬迷いの表情を見せたエルウィンは観念すると再び話し始めた。

「偶然城内で出会った領民の中に、随分軟な手をしている者がいたからだ。あかぎれがあったからふと、思いついただけだ。彼らも越冬期間中、無事に冬を越す為の重要な戦力になるからな。いざと言う時の為にも体調管理には気を付けた方がいいだろう? ただ、それだけの事だ」

エルウィンの話で、スティーブもシュミットもアリアドネの話をしている事はすぐに分った。

「へ~……そんなにその女性の事が気になったんですか?」

(まぁ、アリアドネのように美しい女性は早々いないからな……)

何処かからかうような口ぶりでスティーブは尋ねた。

「おいっ! 俺は別に女だとは言っていないぞ!?」

ムキになるエルウィン。

「はいはい、分りましたって~。ではそう言う事にしておきましょう」

肩をすくめるスティーブにエルウィンは忌々し気に言う。

「全く……本当にお前は昔から気に入らない奴だ……」

そんな2人の様子をシュミットはハラハラした様子で見つめていた。

(まずいな……。このままではますますスティーブはエルウィン様の事をからかいそうだ。これ以上不機嫌になられたら業務にも差し支えるし、何より巻き込まれかねない……)

そう考えたシュミットはすかさず、話題を戻した。

「ですが、無事渡せたのですよね?」

「そうだ。ビルに手渡した。丁度入り口付近にいたからな。すごく喜んでくれていた」

「成程。ビルに渡されたのですね?」

「まあな」

シュミットの言葉に頷くエルウィン。

「でも、何故すぐ戻られたんです? 大将は下働きや領民達と話をするの、お好きだったじゃないですか?」

「……」

エルウィンは越冬期間中のアイゼンシュタット城が苦手だった。
その理由は叔父であるランベールのせいであった。

エルウィンとランベールは犬猿の仲だった。叔父と甥の関係とはいえ、正当な後継者はエルウィンが選ばれた。一方後継者となれなかったランベールはエルウィンの事を戦うしか能の無い男と見下し、毛嫌いしていた。

一方、エルウィンにとってのランベールは最も軽蔑する人種を城に引き入れて来た憎い人物である。それだけでは無い。一度も戦地へ赴いたことが無い卑怯者として、彼の目には映っていたのだ。

その2人が越冬期間中は閉ざされた城内で一緒に生活をしていかなければならない。
それはまさにエルウィンにとっては息がつまる半年間と言える。
だからこそエルウィンは下働きの者達と領民達との生活居住空間に通う事を好み、毎年仕事場に足を運んでいたのである。

「確かに……もう少し話をしていこうかと思ったが……気が変わったんだ」

エルウィンの脳裏に城内で出会った領民の娘……つまりアリアドネの顔が蘇る。そしてその白い手にはあかぎれがあった事を。その時、エルウィンはふと思った。

痛くはないのだろうか……と。

(本当は直接手渡してやろうかと思いたのに……男と手を繋いで歩いている所を声なんかかけられるか)

「エルウィン様? どうされたのですか?」

何故か黙り込んでしまったエルウィンにシュミットは声をかけた。

「いや、別にっ! それよりもあの通路を娼婦達に通らないように注意しろっ! 香水臭くてたまらん! 全く叔父上の奴め……本当に忌々しい……!」

エルウィンはそれだけ言うと、残りのコーヒーを一気に飲み干した。


 しかし、いずれこの事がきっかけとなり、アイゼンシュタット城に衝撃が走ることになる。

そして、そこからさらに領土を巻き込む大事件へと発展していくことになるとは、この時の3人はまだ思いもしていなかった。

その事件の中心になる存在がアリアドネであるという事も――