「エルウィンッ! 叔父である私に……剣を向けるとはき、貴様……どういうつもりだっ!?」
ランベールは後ずさりながら真っ青になって叫んだ。
「どういうつもり? それはこちらの台詞だ。今この領民に何をしようとした? まさかあの時の様に手を出すつもりではないだろうな?」
エルウィンはアリアドネを守るように抱きしめている左腕に力を込めた。
(あの時……? あの時っていつの話なの……?)
アリアドネはエルウィンの腕の中で気恥ずかしさもありながら、言葉の意味を考えていた。
「あ、あれは……ほんの少しだけ、可愛がってやろうと思っただけだ。むしろ、貧しい身分でありながら、私の寵愛を受けるのは悦ぶべき事では無いか?」
「何が寵愛だっ! まだ年若い娘に自分の権力を振りかざして強引に自分の物にしただろう!? あの領民が自殺したのは叔父上のせいだっ!」
エルウィンは怒りを露わに剣を向けたままランベールに言い放った。
(え……? 自殺……? ランベール様に手を出された領民の女性が……?)
その言葉にアリアドネは震えた。その震えがエルウィンにも伝わったのだろう。
「落ち着け」
エルウィンが剣をランベールに向け、睨み付けた視線を逸らすことなくアリアドネにだけ聞こえるように小声で囁いた。
「え……?」
「大丈夫だ。俺が絶対にお前に手出しをさせない。俺を信じろ」
(エルウィン様……!)
そして再びエルウィンはランベールを睨みつけた。
「叔父上、俺は国王陛下からこの城の城主として認められている。城の中で謀反を起こしたとして叔父上を処罰しても俺が咎められる事は無い。何なら今、ここで確かめてみましょうか?」
その言葉にランベールの顔から血の気が失せた。
「う……よ、よせエルウィン……。わ、分った。約束しよう。二度と領民には手を出さないと……な?」
「領民達だけでは無い。俺の指示の下で働いているメイド達と下働きの女達も含めてだ!」
エルウィンは吐き捨てるように言った。
「……っ! わ、分った……。それじゃ……私は部屋に戻るとしよう……」
ランベールは引きつった笑みを浮かべると、まるで逃げるようにその場を走り去って行った。
「……」
エルウィンはランベールが走り去ると、アリアドネから離れた。
「これで分っただろう? お前のような若い娘がむやみに城に立ち入るとどうなるか……。こんな事ではいけないのに……な」
エルウィンの言葉は何所か悲しげだった。
「城主様……?」
その時――
「エルウィン様っ!」
背後でシュミットの声が聞こえ、エルウィンとアリアドネは同時に振り返った。
アリアドネはシュミットを見ると驚いた。
(シュミット様! 何故ここに……?)
シュミットはエルウィンのクラバットで顔を隠すアリアドネをチラリと見ると、次に彼に声をかけた。
「エルウィン様、先程ランベール様に剣を向けられていましたが……何かあったのですか?」
「ああ。また叔父上の悪い癖が出た。叔父上はこの領民に興味を持ってしまったようだ。だから、剣を向けてほんの少しだけ威嚇して追い払ってやっただけだ」
エルウィンはチラリとアリアドネを見た。
「え……領民……?」
シュミットは俯いて立っているアリアドネを見た。アリアドネはその視線を痛く感じ、クラバットを顔に巻いたまま、エルウィンに声をかけた。
「城主様、このクラバットですが……お洗濯してお返し致します」
「洗濯……? 別に構わん。好きにしろ。ただし、城を出るまでは顔に巻いておいた方がいい。お前は良くも悪くも目立ちすぎるからな」
そしてエルウィンはシュミットに声をかけた。
「シュミット、お前が責任を持ってこの娘を仕事場へ送り届けてやれ」
「はい承知致しました」
シュミットは深々と頭を下げた。そしてエルウィンが背を向けて歩き出そうとしたとき。
「城主様!」
アリアドネは勇気を振り絞ってエルウィンの名を呼んだ。
「何だ?」
振り返るエルウィン。
「助けて頂き……。ありがとうございます」
そして深々と頭を下げた。
「別にどうって事は無い」
エルウィンは一言、それだけ告げると大股でその場を歩き去って行った――
――話は少し前に遡る
その時シュミットはアリアドネの姿を探すべく、必死になって城内を探しまわっていた。
エルウィンにはアリアドネの名前を知られている。その為、名前を呼びながら探す事はためらわれた。
(アリアドネ様……一体どちらに行かれたのだ……?)
大理石の廊下を靴音を響かせながらシュミットは必死になってアリアドネを探した。
途中何人かの使用人達にすれ違い、下働きの女性を連れた2人のメイドを見かけなかったかを尋ねてみたものの、それらしき人物を見た者は1人もいなかった。
「困った事になった。もしお1人で城の何処かで迷われていたら……」
ただでさえ、この城は外部からの侵入者を惑わす為に迷路の様な複雑な作りをしている箇所がある。不慣れな者が迷い込めば、ただではすまない。
しかし、シュミットの心配はそれだけでは無い。ある一つの恐れがあったのだ。
それはここ『アイゼンシュタット城』にはあのランベールの息の根がかかった、ならず者の騎士や兵士が多く存在していると言う事だった。
彼等は皆一様に女に目が無く、色欲が非常に強い。
その様な者達にもし、アリアドネが見つかってしまったらどのような目に遭わされるかは目に見えて分っていた。
アリアドネの様に若く美しい女性は早々いない。きっと彼らはこぞってアリアドネを我が物にしようとするに違いない。
「……」
その事を考えるだけで恐怖により身体が震えて来る。
「何としても手遅れになる前に一刻も早くアリアドネ様を見つけ出さなければ……!」
その時、通路の曲がり角の奥の方で騒ぎが聞こえた。
「まさかっ! アリアドネ様っ!?」
廊下を駆け、通路を曲がった途端エルウィンがランベールに剣を向けている姿がシュミットの目に飛び込んできた。
「あ……あれはエルウィン様にランベール様……えっ!?」
その時、シュミットは見た。
エルウィンの腕の中にアリアドネがいる事を。アリアドネはエルウィンのクラバットで顔を隠しているが、長く伸びた金の髪で誰かは容易に判断出来た。
(な、何故エルウィン様がアリアドネ様を抱き寄せているのだ……)
シュミットはエルウィンがランベールに剣を向けている姿よりも、大切そうに……まるでアリアドネを守るかのように抱き寄せている姿にショックを受けた。
エルウィンはランベールを激しく恫喝し……やがて青ざめた顔のランベールはまるで逃げる用に立ち去って行く。
そしてエルウィンがアリアドネから離れ、会話を始めた時にようやくシュミットは我に返った。
「エルウィン様っ!」
シュミットはエルウィンの名を叫ぶと、駆け足で2人の元へ向かった――
****
エルウィンがシュミットにアリアドネを託し、立ち去ったところでシュミットは声をかけた。
「アリアドネ様、探しました。本当にご無事で良かったです」
シュミットは安堵のため息をつきながらアリアドネを見つめた。
「ご心配おかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
「いいえ、謝罪等なさらないで下さい。さて……それでは作業場に戻りましょうか? あまり城内にはいない方が良いと思いますので」
「ええ。そうですね。エルウィン様にも言われましたから」
そして2人は並んで歩き始めた。
「そうですか。エルウィン様が直々にお話されたのですね?」
歩きながらシュミットは尋ねた。
「はい、そうです。今日は危ない所を二度も助けて頂きました。本当に感謝の気持ちで一杯です」
「え……? 二度も……?」
(一体どういうことなのだろう……?)
そこでどうしても事情を知りたくなったシュミットは尋ねてみる事にした。
「あの…差支えなければ何があったのか、教えて頂けますか?」
「ええ、分りました」
そしてアリアドネはこの城で何が起こったのか、歩きながら説明を始めた――
「そうですか……そのような事があったのですか」
シュミットはアリアドネの話を聞き、ため息をついた。
「ですが、本当にご無事で良かったです」
「ええ、私は本当に運が良かったです。エルウィン様に感謝しないとなりませんね」
「そ、そうですね」
笑顔でエルウィンの事を語るアリアドネにシュミットは複雑な気持ちを抱えていた。
(何故、アリアドネ様は笑顔でエルウィン様の事を語れるのだろう? 元はと言えば、始めからエルウィン様がこの方を妻として受け入れて下さっていれば、下働きとして手荒れを作ってまで働く事も無く、この城のならず者達から貞操の危機に晒される事も無いのに)
「シュミット様? どうされましたか?」
隣を歩くアリアドネはシュミットが深刻そうな表情を浮かべているのを不思議に思い、声をかけた。
「いえ、何でもありません。ところでアリアドネ様」
「はい、何でしょうか?」
「冬場の下働きの仕事は辛くはありませんか? 見た処、手荒れもされているようですし」
「あ、こ、これは……お恥ずかしい限りです。このように見苦しい手をお見せしてしまって」
「何を仰るのです? 見苦しい手など決してそのような事はありません。働き者の立派な手だと思います。ですが仮にも本来アリアドネ様はエルウィン様の妻となるベく遠路はるばる嫁がれて来たのに本当に申し訳ございません。上の者達にだけは素性を明かし、労働から解放して貰う様に伝えましょうか?」
シュッミットの言葉に慌てた様にアリアドネは首を振った。
「いいえ! とんでもありません! シュミット様、お願いですからそのような事は決してなさらないで頂けませんか? どうか特別扱いしないで下さい。それに私働く事が好きなのです」
「ですが、今のアリアドネ様は普通の貴族令嬢と全く異なる生活をされています。本来の貴族女性であれば、お茶をたしなんだり、勉強を学んだり、読書をして過ごす……それが普通なのですよ?」
「確かにそうかもしれませんがお恥ずかしい事に私は貴族令嬢としての教育を一切受けて来なかったのです。読み書きは何とか出来ますが他の事はさっぱり分りません。楽器を演奏する事も、ダンスを踊ることも何一つ出来ません。子供の頃からずっとメイドとして働いて来たので、今の生活が一番私には合っているのです」
「アリアドネ様……」
そこまで2人が話した時、ようやく作業場へと続く地下通路に出る事が出来た。
「シュミット様、もうここまで案内して頂ければ大丈夫です。後は1人で戻れますので」
「え……? ですが……」
「シュミット様はとてもお忙しい方ではありませんか?私の為にこれ以上時間を割いて頂くのは申し訳ありません」
「わかりました。そこまでアリアドネ様が仰るのであれば、ここまでの案内に致しましょう」
本当はもう少しアリアドネと一緒にいたかったが、シュミットにはその気持ちを口に出す事が出来ない。
「本当にありがとうございました。エルウィン様に宜しくお伝えください」
「え。ええ……分りました。伝えておきましょう」
シュミットは笑みを浮かべながら返事をしたが、アリアドネの口からエルウィンの名を聞くと、何故か胸がズキリと痛むのだった――
アリアドネがシュミットと別れ、地下階段を上って仕事場に戻ってきた途端、マリアとダリウスが慌てた様子で駆けつけて来た。
「「アリアドネッ!」」
2人が同時に駆けつけて来たので、アリアドネは驚いた。
「まぁ……どうしたのですか? 2人共。そんなに慌てて……」
そして頭に巻き付けていたクラバットを外した。
「どうしたもこうしたも……大丈夫だったかい? 恐ろしい目に遭わなかったかい?」
マリアが心配そうに尋ねてきた。
「え? ええ大丈夫でした」
するダリウスが安堵の溜息をついた。
「そ、そうか……良かった……。アイゼンシュタット城には手癖の悪い騎士や兵士がいると言う話をマリアさんから聞かされたから君の事が心配でたまらなかったんだ」
「ダリウス……ありがとう、心配してくれて」
「ところで、その手に持っている青い布は何だい? 顔に巻いて戻って来たよね?」
ダリウスが尋ねてきた。
「ええ、このクラバットはエルウィン様が貸して下さったの」
「え? エルウィン様が?」
マリアが驚いた様子を見せる。
「……城主様が貸してくれたのか?」
ダリウスは真剣な目でアリアドネを見た。
「え、ええ? そうだけど?」
「アリアドネ。何で頭に布を巻いていたんだい? 一体何があったのか説明して貰えるかい?」
「はい。実は……」
マリアの質問にアリアドネは答えた。城で何があったのかを……。
「まさか、そんな事があったなんて……本当に無事で良かったよ。あんたは器量良しだから、心配していたんだよ」
話を聞き終えたマリアはアリアドネをギュッと抱きしめた。
「心配して頂き有難うございます」
今ではマリアはまるでアリアドネの母親の様な存在になりつつあった。
「だけど城主様がアリアドネを助けたなんて……信じられないな……」
ダリウスが首をひねる。
「おや? あんたは『アイデン』の領民なのに、エルウィン様の事をまだ暴君だと思っているのかい? 乱暴だけどね、優しいところもある方なんだよ?」
マリアの言葉にアリアドネも賛同する。
「ええ、そうですね。私もエルウィン様は恐ろしい方だと思っておりましたが、今日お会いして分りました。優しい一面を持ち合わせているお方なのだと」
「アリアドネ……。そんな……まさか、あの辺境伯に……?」
ダリウスの最後の言葉は小さすぎて、マリアとアリアドネの耳には入って来る事は無かった――
****
アリアドネと別れたシュミットはエルウィンの執務室の前に立っていた。
(エルウィン様は執務室を出られた時は訓練所に行くと仰っておられたが……もう戻られているのだろうか?)
――コンコン
シュミットは扉をノックしてみた。
『……誰だ?』
扉の奥からエルウィンの声が聞こえて来た。シュミットはまさか本当にエルウィンがいるとは思わず、少しだけ驚きつつも声をかけた。
「私です、シュミットです」
『入れ』
間髪開けず、エルウィンの声が聞こえて来た。
「失礼致します」
カチャリと扉を開けて室内へ入り、驚いた。何とエルウィンが机に向かい、仕事をしていたのだ。
その姿にシュミットは驚いてしまった。
「エルウィン様、一体どうされたのですか? まさかお仕事をされているとは思いもしませんでした。訓練所へ行かれる予定で執務室を出られたはずでしたよね? なぜこちらに戻って来られたのですか?」
するとエルウィンは機嫌が悪そうにシュミットを見た。
「何だ? お前は一体……。いつもなら人の顔を見る度に仕事をしろと言ってくるくせに、いざ仕事をすれば驚くし。お前は俺が一体どうすれば納得いくのだ?」
「い、いえ。エルウィン様が真面目に仕事をして頂くに越したことはありませんが……何故ですか?」
シュミットは自分の席に座ると質問した。
「ああ、真面目に仕事をすれば早く終わる。早く終われば領民達と話が出来るだろう?」
エルウィンは書類から目を離さずに言った。
「え……? 領民達と……?」
その時、シュミットの頭の中にエルウィンの言葉が蘇ってきた。
『叔父上はこの領民に興味を持ってしまったようだ』
(そうだ、エルウィン様はアリアドネ様の事を領民だと勘違いしておられた。でも……まさか……?)
すると不意にエルウィンが声をかけてきた。
「シュミット」
「はい、何でしょうか?」
「下働きの者達と領民達にハンドクリームを支給してやってくれ」
「え……? ハンドクリームを……ですか?」
「何だ? 文句あるのか? それ位の予算が組めないのか?」
ジロリとエルウィンはシュミットを睨み付けた。
「い、いえ。そんな事はありません。直ちに手配致します」
「ああ。早急に頼む」
そしてエルウィンは再び書類に目を落とした。そんなエルウィンを見つめながらシュミットは思った。
(エルウィン様……もしや……アリアドネ様の事を……?)
しかし、その事をエルウィンに尋ねる事など、到底出来るはずは無かった――
エルウィンがランベールを恫喝してから数日が経過していた。
アイゼンシュタット城の周囲はすっかり深い雪に包まれていた。
城門は固く閉ざされ、完全に外界から孤立していた。
吹雪も止むことが無く1日中吹き荒れ、城の外へ出る者はもはや1人もいなかった。
「話には聞いておりましたが、アイゼンシュタット城は本当に過酷な環境下におかれているのですね」
仕事の合間の休憩時間にアリアドネはお茶を飲みながら窓の外を見つめた。
「ええ、そうね。始めてここで冬を越すアリアドネには驚きかもしれないわね」
ここの使用人達の中では比較的アリアドネと年の近いセリアが返事をした。
「それにしても危ないところだったわね。兵士たちどころか、ランベール様にまで見つかってしまったのだから。本当に無事で良かったわよ」
マリアがクッキーをつまんだ。
「はい、エルウィン様が助けて下さったおかげです。それで……あの……」
「ああ、分かってるって。もうシュミット様から話は聞いているから。本当はアリアドネはエルウィン様の妻になるべく、ここにやってきたんだろう?」
イゾルネがアリアドネを見つめる。
「はい、そうです。ですが、正確に言えば本来は姉がエルウィン様に嫁ぐ予定だったのですが、父に私が身代わりとしてアイゼンシュタット城へ行くように命じたのです。私は……妾腹の娘でしたから」
一緒にお茶を飲んでいたマリア、イゾルネ、セリアはいつしか黙ってアリアドネの話を聞いていた。
「エルウィン様が妾腹の人間を嫌っているという事も、妻を必要としていなかった事も、お会いして始めて知ったのです。それなのに私のような者が押し掛けて来てしまったので、エルウィン様はさぞかしお怒りになってしまったのでしょうね」
「それは違うよ、アリアドネ」
イゾルネが否定する。
「ああ、そうだよ。エルウィン様が妻を必要としていないのは恐らく3年前の事件がきっかけだと思うんだよ」
マリアがアリアドネの肩に手を置いた。
「3年前……? アイゼンシュタット城が敵国から攻められた時の話ですよね?」
「ああ、そうだよ。あの時奥様は敵国に捕らわれて人質になってしまったのさ。それで城主様は奥様を助ける為に剣を下ろし、殺害されてしまった。それどころか奥様まで敵国は手にかけ、そこへエルウィン様率いる騎士達が現れて敵の制圧に成功したのだけど……」
マリアがそこで言葉を切り、再び続けた。
「城主様と奥様の葬儀の時、エルウィン様は言ったんだよ。『敵に弱みを握られない為に自分は妻も娶らず、子も成さないとね。だからね、エルウィン様はアリアドネのことが気に入らなくて、この城を追い出したわけじゃないんだ。色々な事情があって、この城にはいないほうが幸せになれると考えたから、追い出したに決まってるよ」
「そうだったのでしょうか……。でも確かにそれ程恐ろしい方では無のでしょうね。あ、皆さんにお願いがあるのですが……」
アリアドネは3人を見た。
「ええ、分かってるわよ。貴女の事はエルウィン様には内緒。宿場町から避難してきた領民という事にしておけばいいのでしょう? そしてエルウィン様の前ではリアと呼べばいいのよね?」
セリアが言った。
「はい。その様にお願いします」
その時、地下通路の方から声が上がった。
「エルウィン様……! どうされたのですかっ!?」
(え? エルウィン様……?)
アリアドネが声の聞こえた方角を見ると、地下通路に続く階段付近で男性寮の責任者と談笑しているエルウィンの姿があった――
エルウィンは1人、使用人達と領民達が仕事をしている仕事場へとやって来ていた。彼の右手には大きな麻袋が下げられている。
地下通路へ続く階段付近で丁度仕事をしていた男性寮の責任者、ビルはすぐにエルウィンの姿に気付き、駆け寄ってきた。
「これはエルウィン様ではありませんか。この様なむさ苦しい場所へわざわざ足を運ばれるとは一体どうなさったのですか?」
「ああ、実はお前たちに配給したい物があって持ってきたのだ」
エルウィンは麻袋をビルに手渡した。
「え? これは一体……?」
袋はずっしりと重かった。
「中を見ても宜しいでしょうか?」
「勿論だ」
「それでは失礼致します」
ビルは袋の中に手を入れ、1つ取り出してみた。
「これは……?」
それは手の平サイズの小さなガラス瓶に入ったクリームだった。
「ハンドクリームだ。人数がどれほどいるのか分からなかったので、とりあえず50程用意させて貰った。足りないかもしれないが今の所用意できたのはそれだけだったのだ。また用意でき次第こちらに持ってくるので、とりあえず手荒れが酷い者達に優先的に配ってくれ」
エルウィンの言葉にビルはすっかり感動してしまった。
「何と温かいお言葉なのでしょう。まさかエルウィン様が直々に持ってきて下さるとは感激です」
「いや、そんなに大袈裟にしなくていい。他の者が皆忙しそうにしていたので、代わりに俺が届けに来ただけだから」
笑みを浮かべながら答えるエルウィン。
しかし、それは真っ赤な嘘であった――
****
「……全く、いつになったら俺の仕事が減るのだ?」
エルウィンはイライラしながら机の上に山積みにされた書類を見ながら呟いた。
彼の本来の役目は兵を率いて、自ら先陣を切って戦うのが務めであった。
心優しい父は辺境伯という立場にありながら、あまり戦いを好むような人物では無かったからである。
「くそっ……こんなことをしているくらいなら、剣の手入れをしている方がずっとマシだ……」
ブツブツ言いながらもエルウィンは仕事をしていた。
「シュミットの奴め……こんなに仕事が溜まっているのに一体どこへ行った?」
エルウィンのイライラは、まさにピークに達しようとしていた。
その時――
ノックの音と共に、シュミットの声が聞こえてきた。
『エルウィン様。宜しいでしょうか?』
「ああ……入れ……」
エルウィンは手元にあったシーリングワックスを握りしめながら返事をした。
「失礼致します」
カチャリと扉が開かれた瞬間エルウィンはシュミットの眉間めがけてシーリングワックスを投げつけた。
シュッ!
空を切る音が聞こえた瞬間。
パシッ!
シュミットは飛んできたシーリングワックスを右手で受け止めた。
「……チッ! 運のいい奴め……」
「いいえ、お褒めに預かり光栄です。それでどうでしたか? 今の動きは?」
「そうだな……越冬期間に入り、お前の身体がなまっているのではないかと思ったが、大丈夫そうだな?」
腕組みするとエルウィンはニヤリと笑った。
実は、これはシュミットとエルウィンの間で行われる一種の反射神経を鍛える為の訓練でもあった。
時にはシュミットがエルウィンに対し、今のような行動を取る事もあるが、第三者から見れば非常に驚かれてしまう事もしばしばだった。
「ところで今迄何処に行っていた? 仕事が溜まっているというのに。それに足元にある麻袋は何だ?」
エルウィンはシュミットの足元に置かれた麻袋を見た。
「ええ、実は以前お話されていたハンドクリームが50個用意できたので、今から配りに行く予定なのです」
「よし、なら俺が代わりに行こう!」
エルウィンは勢いよく席を立った。
彼はもういい加減、椅子に座って書類に目を通すのにうんざりしていたのだ。
「えっ? 何ですって? エルウィン様自ら行かれるのですか? こんなに仕事を残して?」
「うるさい! 少しくらい息抜きさせろっ!」
エルウィンはシュミットの前に立ち、麻袋を拾い上げた。
「では、ちょっと行ってくる」
そして大股で執務室を出ていってしまった。
呆然とするシュミットをその場に残し――
エルウィンが寮長のビルと話している姿をダリウスも見つめていた。
彼は仲間達と一緒にお茶を飲んでいた所、エルウィンがやってきた事に気づいたのである。
(あ……あの人は辺境伯……。まさかアリアドネに会いに来たのだろうか? 一体何の為に……?)
「どうしたんだ? ダリウス」
その時、同じ領地からやってきた仲間の妻子持ちの男性が話しかけてきた。
「あ、いや……城主様が来ているなと思ってね」
「そうだな。珍しい事もあるものだ。あまり城主様はここに顔を出さないのにな。話によると、越冬期間中に溜まっていた書類の仕事が忙しいとかで、滅多に足を運ばないのに今年は余裕があるのかな? 領主になって3年目だし」
「そう……なのかな?」
そして残りのお茶を一気飲みすると席を立った。
「どうしたんだ? ダリウス。まだ休憩中だぞ?」
「ああ、分かってる。ちょっと知り合いの女性の所へ行ってくるんだ」
「ああ、あの娘か? しかし、いつの間にあんな若くて美人な女性が下働きとして働いていたんだろうな?2 人は仲が良くてお前が羨ましいよ」
「いいのかい? 奥さんも子供もいる人がそんな事言っても」
「え? じょ、冗談だって。本気で取るなよ?」
「分かってるって、それじゃちょっと行ってくる」
そしてダリウスはアリアドネの元へ向かった。
****
(エルウィン様がいらっしゃったなら……クラバットをお返し出来るチャンスかもしれないわ)
アリアドネはスカートのポケットを上から手でそっと触れた。この中にはエルウィンから借りた洗濯済みのクラバットが入っている。
いつ、エルウィンに会えるか分からなかったので、常に持ち歩いていたのだ。
(シュミット様がいらした時にお願いしようかとも思っていたけれども、あの方もお忙しいのか、ここ最近お見かけしなかったし……でも偶然ここでお会い出来て良かったわ)
以前のアリアドネなら、エルウィンの事を酷く恐れていただろう。
だが、あの時城内で2度も危ない目に遭いそうな所を助けてくれたこと。そして下働きの者達や領民達から慕われている事を知り、徐々にエルウィンに対しての恐れが無くなっていた。
第一エルウィンには自分の正体がバレていない。それも救いだった。
「どうしたんだい? アリアドネ」
マリアがエルウィンの方を凝視している事に気付き、声をかけてきた。
「エルウィン様にお借りしていたクラバットをお返ししようと思っていたのですけど……なかなかビルさんとのお話が終わらないなと思って」
「ああ、確かに話をしてるけど……別にいいんじゃないかい? 多分雑談しているだけだと思うし」
「そうですね。では私、お返しに行ってきます」
アリアドネが席を立とうとした時……。
「あらダリウスじゃないの? どうしたの?」
セリアが首を傾げた。
「え?」
驚いて振り向くと、ダリウスがアリアドネの元にやってきた。
「アリアドネ、ちょっといいかな?」
「ええ、いいわよ」
「本当かい? それは良かった。なら行こう」
ダリウスはアリアドネの右手を取ると立ち上がらせた。
「え?」
突然の事に戸惑うアリアドネ。
「まぁ……2人はまるで恋人同士みたいね」
セリアがからかう。
「そ、そんな恋人同士なんて……」
「ありがとうございます」
慌てるアリアドネに対してダリウスは正反対だ。
「向こうへ行こう、アリアドネ」
そしてダリウスはアリアドネの手を繋いだまま歩き出す。
(ん? あの後ろ姿は……)
その時、エルウィンはアリアドネがダリウスに手を引かれて歩いてる後ろ姿を見かけた。
(あれは……この間の領民か? 一緒にいる男は一体誰なのだろう……?)
「エルウィン様、どうかされましたか?」
ビルが尋ねてきた。
「いや、何でも無い。それでは俺はそろそろ城に戻る。皆にクリームを配っておいてくれ」
「はい、承知致しました」
「それではな」
「はい、エルウィン様」
そしてエルウィンは背を向けると仕事場を後にした――
ダリウスに連れられてきたのは仕事場の奥にある倉庫だった。この倉庫には穀物や野菜、干し肉、加工品……様々な物が棚にぎっしりと並べられている。
「どうしたの、ダリウス。こんな処に来たりして。何か用事でもあるの?」
アリアドネは首を傾げた。するとダリウスは辺りを伺いながら話し始めた。
「ちょっと2人きりの大事な話がしたかったからね。幸いここは滅多に人が来るような場所じゃないし……」
「ええ、確かにそうだけど……でも大事な話って何?」
アリアドネは緊張気味の顔で尋ねた。
「うん、その前に……手のあかぎれの方はどうだい?」
「え? あかぎれ? ええ、ダリウスのくれたクリームのお陰で……見て? こんなに綺麗になったわ」
アリアドネは笑顔でダリウスに手を見せた。
「……」
ダリウスは少しの間、アリアドネの手を見つめていたがやがてそっと触れて来た。
「ダ、ダリウス?」
突然手を触れられて、アリアドネの顔が赤くなる。
「うん……とても綺麗になったね……すべすべで、色白で柔らかい」
そして両手でアリアドネの手を包み込んできた。あまり異性との触れ合いに慣れていないアリアドネは顔が赤らむ。
「ダ、ダリウス……手を離してくれる?」
「あ、ごめん。勝手に触れたりして」
ダリウスはパッと両手を離し、申し訳なさげに謝るとすぐに真面目な顔つきになる。
「実は君に大事な話があるんだ。来年越冬期間が開けたら、俺は国に帰ろうかと思ってる」
「え? 貴方は『アイデン』の領民だったのではないの?」
「『アイデン』には用事があったから一時的に暮らしていただけなんだ。でもその用事もここの越冬期間が開ければ終わりになる。だから国に帰るつもりなんだ」
その話にアリアドネの顔に悲しみの表情が浮かぶ。
「そうなの……残念だわ。折角貴方とは良いお友達になれたかと思っていたのに」
「友達……か……」
ダリウスは寂し気な笑みを浮かべ、更に声のトーンを落とした。
「アリアドネ……君は本当は下働きの者じゃないんだろう?」
「え? な、何故それを……」
「ヨゼフさんに聞いたからだよ」
「え? ヨゼフさんに? あ……そう言えば、いまどうしているの? ヨゼフさんは元気なの?」
アリアドネは越冬期間に入ってからは一度もヨゼフの姿を見ていない。何でも腰痛が酷くて仕事が出来ないので、ここでの仕事が免除されていると人づてに聞かされていた。
「勿論元気だよ。ただ腰痛が少しこの寒さで悪化しているんだけどね。今彼は男性寮の管理の仕事を任されているんだよ」
「そうだったのね……元気そうなら良かったわ。……あ、ごめんなさい。話がそれてしまったわね。続きを聞かせてくれる?」
「うん。ヨゼフさんは気さくでいい人だからね……俺も彼と親しくなってそこで誰にも秘密だと言う事で、教えて貰ったんだよ。君は本当は伯爵令嬢で、辺境伯の妻になる為に嫁いで来たって話を。けれど彼は妻を望んでいなかった。それどころか、追い出す為に剣を抜こうとしたらしいじゃないか……」
「ダ、ダリウス…」
その声には、どこかエルウィンに対して憎しみを抱いているかのような言い方だった――
「ダリウス、貴方はひょっとしてエルウィン様を良く思っていないの?」
するとダリウスは眉をしかめた。
「当然じゃないか。君だって彼の評判を知っているだろう?『血に飢えた戦場の暴君』。この屋敷で働いているのだからそう呼ばれているのを知らないはずは無い。いや、それだけじゃない。彼は戦場で打ち取った敵の大将達の首を取り、その首を前に酒を飲むのを何よりも好むと言われるような人物だからな」
「……」
その言葉を聞いたアリアドネは気分が悪くなり、思わず眉をしかめてしまった。
「あ……ごめん。女性には少し刺激が強い話だったね。配慮が足りなかったよ」
アリアドネの様子に気付いたダリウスはすぐに謝罪してきた。
「ダリウス。私はね、この縁談が決まってお父様に話を聞くまではエルウィン様がどのような方か知らなかったのよ。そしてヨゼフさんと2人でこの城を目指して旅に出て、その道すがらエルウィン様の話を聞いてきたわ。やっぱり評判は良くは無かったし、初めてこの城へやってきた時……剣を抜かれそうになった時は本当に怖かった」
「そうだろう?」
ダリウスはアリアドネが自分の意見に賛同してくれたのだと思い、嬉しくて笑みを浮かべた。
「でもね、この間メイドさん達に連れられて城へ行った時、エルウィン様が兵士に絡まれている私を助けてくれたのよ? それだけじゃないわ。帰り道にエルウィン様が私が目立たないようにと、クラバットを貸して下さったの。これで顔を隠すようにって。そして私を仕事場まで送ってくれた時にランベール様が現れたわ。危うく掴まりそうになったところをエルウィン様が助けてくれたのよ」
アリアドネの話をダリウスは黙って聞いている。
「だからそんなに世間で騒がれているような残虐な方では無いと思うの。ただ単に、話が誇張されすぎているのじゃないかしら?」
「だけど、アリアドネ。君は戦場での彼の事を知らないから……」
「え? ダリウス。貴方もしかして参戦したことがあるの? ひょっとして兵士だったの?」
アリアドネは目を見開いた。
「いや……それは知らない。ただ、国にいた時に人づてに聞いた話なんだ。けれど俺が話したいのはそんな事じゃない。アリアドネ、越冬期間が終ったら一緒に俺の国へ行かないか?」
「え!?」
あまりにも突然の申し出にアリアドネは驚いた。
「ダリウス……本気で言ってるの?」
「勿論本気だ。アリアドネ、この城はおかしい。大体メイドが城の男たちの夜伽をするなんてあり得ないだろう? それだけじゃない。越冬期間中は娼館から10人以上の娼婦が城に住んでいるなんて普通じゃない事だ。大体、城がこんな状態になったのはエルウィン様が城主になってからなんだろう?」
「そ、それは……ランベール様が勝手にやっている事なのよ? あの方はエルウィン様の叔父だからエルウィン様の次に権力を持つ方で、歯向かえなかったと聞いているわ」
(それに……何より一番今の状況を許せないのはエルウィン様なのに……)
アリアドネはランベールに激しい怒りをぶつけていたエルウィンの姿を思い出していた。
「エルウィン様が城の者全てをコントロール出来ないのは、彼が未熟な城主だからだろう?」
「ダリウス……」
「君がヨゼフさんを残してこの城を去れないと言うのなら彼も一緒に連れてこの城を出よう。ここは君のような女性が暮らすのには不向きな場所だ」
「そ、そんな事……いきなり言われても……」
俯くアリアドネにダリウスは謝罪した。
「ご、ごめん。いきなりで、驚いたよね? だけど前向きに考えておいてくれないかな? 越冬期間が終わるまで半年近くあるから、その期間に答えを出して欲しいんだ」
しかし、アリアドネは何も答える事が出来なかった。
「……ごめん、悩ませてしまったね……。そろそろ休憩時間が終る。仕事場に戻ろう?」
「ええ……」
そしてダリウスとアリアドネは何とも気まずい雰囲気の中、それぞれの持ち場へ戻るのだった――