身代わり婚~暴君と呼ばれた辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

 朝の食事を終えて間もない頃――

――コンコン

ミカエルとウリエルの部屋の扉がノックされた。

「兄上、誰か来たよ」

クレヨンで絵を描いていたウリエルが本を読んでいたミカエルに声をかけた。

「多分、ゾーイじゃないかな。ほっておけばいいさ。勝手に部屋に入ってくるだろう?」

ミカエルは顔も上げずに興味なさげに返事をする。
実はミカエルはゾーイの事が好きでは無かった。自分たちの侍女であるはずなのに、すぐに何処かへ行ってしまうからだ。用事があって探しに行けば、大抵騎士達と楽し気に話をしている。
そして、2人にこう言うのだった。

<お父様と側近の人達には決してこの話をしてはいけません。さもなくば今よりも学習の課題を増やしますよ>

と――


(ウリエルはどう思っているか知らないけれど、僕はあんな侍女ならいなくても別に構うものか)

なので、ミカエルはノックの音を無視することに決めた。

「いいのかな〜……出なくても……」

ウリエルは少し不安げミカエルを見つめている。
すると2人がノックに応じない為に、再び扉がノックされ、同時に呼びかける声が聞こえてきた。

――コンコン

『ミカエル様、ウリエル様。いらっしゃいませんか? シュミットですが』

「あ! シュミットさんだっ!」

ウリエルは椅子から飛び降りるとすぐに扉に向い、大きく開け放った。

「いらっしゃい! シュミットさん。あ! スティーブさんも来てくれたんですか!?」

扉を開けたウリエルはすぐにシュミットの背後に立っていたスティーブに気付き、笑顔になる。

「ああ、こんにちは。ウリエル様」

スティーブの声がミカエルの耳にも届いてきた。

「え? シュミットさんとスティーブさんが来たの!?」

ミカエルも慌てて本に栞を挟み、扉に駆け寄ると嬉しそうにシュミットとスティーブに声をかけた。

「おはようございます! シュミットさん、スティーブさん。まさかお2人がここへ来てくれるなんて思ってもいませんでした」

ミカエルもウリエルもエルウィン達の事が大好きだったのだ。

「ええ、おはようございます。ミカエル様、ウリエル様。ところでゾーイ様はいらっしゃいますか?」

シュミットは笑みを浮かべながら2人を見下ろし……部屋の中を見渡した。

「ゾーイならいないよ」

ウリエルが返事をする。

「え……いない……? それじゃ、2人きりでこの部屋にいたのか?」

スティーブが腕組みしながら尋ねた。

「はい、そうです。……でも、元々ゾーイはあまり僕達と一緒に過ごしていませんから」

ミカエルの言葉にシュミットは眉をしかめた。

「え……? どういうことなのです?」

「ゾーイはね、僕達に自習させるとすぐに何処かへ行っちゃうんだよ」

「何だって? それは本当の話なのか?」

スティーブが呆れた顔つきをする。

「そうです。あ、もしかしてゾーイに用事があったんですか?」

「ええ、そうなんです。実は……」

シュミットがミカエルに返事をしかけた時……。


「あ、あの……何か御用でしょうか?」

背後でゾーイの声が聞こえ、シュミットとスティーブが同時に振り向いた。

「「え……?」」

2人はゾーイの顔を見てギョッとした。

何故なら、現れたゾーイは真っ赤に泣きはらした目をしていたからであった――



****


「それでお話と言うのは何でしょうか……?」

ゾーイはすっかり気落ちした様子で、シュミットの向かい側のソファに座っていた。

「ええ……それが……」

シュミットは言葉を濁しながら、何と言って話を切り出せばよいか考えていた。そして部屋の奥をチラリと見た。
そこにはミカエルとウリエルに剣の構え方を楽しげに教えているスティーブの姿があった。

(全く……スティーブは本当に呑気でうらやましいものだ)

シュミットは少しだけ恨め気にスティーブを見ていた。

「あの……? シュミット様?」

いつまでも話を切り出さないシュミットに、ハンカチを握りしめたゾーイが声をかけてくる。

(もう、ここまで来たらストレートに伝えてしまった方が良いかも知れないな……)

そこでスティーブは覚悟を決めてゾーイを見た――
「ゾーイ様、何故私がこちらに伺ったかお分かりになりますか?」

シュミットは丁寧な口調でゾーイに語りかけた。

(一応、この方は子爵家の出身だからな……それなりの態度で接しないと……)

「さ、さぁ……何のことかさっぱり……」

しかしゾーイの顔は青ざめ、さらに身体は小刻みに震えている。どうみても心当たりがあるのは傍から見て取れた。

(全く、こんなにあからさまな態度でとぼけようとするとは……やはり、はっきり言わなければならないだろう)

シュミットは心の中でため息をついた。何しろエルウィンからは30分以内にクビにしてくるように命じられているのだから。

「左様でございますか……なら、はっきり言わせて頂きます。私がこちらに伺った目的は1つしかありません。ゾーイ様、エルウィン様の命により今ここでミカエル様とウリエル様の侍女の任を解かせて頂きます」

「な、何故ですかっ!? 何故私が解任されてしまうのですかっ!? お断り致します! 私以外に誰がお2人の侍女が務まるのですかっ!?」

ゾーイは激しく首を振った。

「え……?」

その言葉にシュミットは唖然とした。

(まさかエルウィン様の命を拒否するとは……仕方ない。女性に恥をかかせる趣味はないのだが……やむを得まい)

「ゾーイ様、昨夜エルウィン様のベッドに潜り込まれていましたよね。しかも裸同然の姿で」

「!」

ゾーイの肩がビクリと跳ねる。

「しかも、それだけではありません。事前に媚薬入りのワインを飲ませて」

「え!? や、やっぱり…エルウィン様はあのワインを口にされていたのですか? オズワルド様の言う通りだったのだわ……。だとしたら何故……エルウィン様は……ハッ!」

そこでゾーイは口を閉じた。自分が失言したことに気付いたからだ。

「そうですか。やはりあのワインには媚薬が仕込まれていたのですね……。なんて愚かな事を……」

シュミットはため息をつくと続けた。

「良いですか? エルウィン様は誰よりも潔癖で娼婦を嫌っているお方です。それなのに貴女は娼婦の真似事のような行動を取られました。それだけではありません。よりにもよってエルウィン様のベッドにあの方の大嫌いな香水の香りを移すなど……。大層ご立腹されておりました」

「そ、そんな……」

ゾーイの身体の震えは止まらない。

「で、ですがいくらエルウィン様でも……わ、私は亡きランベール様の命により侍女を務めておりますので任を解くなど……」

するとその時――

「シュミットさん、ゾーイは僕達の侍女にふさわしくありません。どうぞエルウィン様のおっしゃる通り、クビにしてください」

はっきり、よく通る声でミカエルが言った。

「ミカエル様っ? 話を聞いていたのですか?」

シュミットは驚いた様子でミカエルに顔を向けた。彼の背後にはスティーブ、そしてウリエルの姿もあった。

「はい。シュミット様。ゾーイは僕達の侍女でありながら騎士達の元へ入り浸り、ろくに侍女としての役割を果たしてはくれませんでした。そうだろう? ウリエル」

ミカエルはウリエルを振り返った。

「うん、そうだよ。しかもこの事を他の誰かに言いつけたら勉強の課題を増やすって僕達を脅していたんだ」

実はウリエルもゾーイを嫌っていたのである。

「ミカエル様! ウリエル様! な、何て事を仰るのですか!? わ、私はその様な真似は……」

「していないとは言わせないぞ ?ゾーイ。お前が俺の部下達に色目を使っていたことを知らないとでも思っていたのか?」

スティーブがさらに追い打ちを掛ける。

「……これで決まりですね。ゾーイ様、たった今侍女は解任致します。今すぐこの部屋を出ていって下さい。代わりに今日からはメイドとして働いていただきます」

「そ、そんな……」

シュミットの言葉に、ゾーイはがっくり頭を垂れた――
 ゾーイがエルウィンのベッドに潜り込むという無礼を働いた罪で、ミカエルとウリエルの侍女の任を解かれたと言う話はその日の内に一瞬でアイゼンシュタット城を駆け巡った。
そしてゾーイは越冬期間が終わるまではメイドとしてこの城で働き、雪解けと共に城を出ていく事を命じられたのであった――


****
 

 美しいドレスから黒いドレスに白いエプロンというメイド服に無理やり着替えさせられたゾーイ。
彼女は早速オズワルドに助けを求めに地下鍛錬所に押しかけてきた。

「オズワルド様! どうかお助け下さいっ!」


涙目になって、自分の元に押しかけてきたゾーイをオズワルドは呆れた様子で見降ろした。

「……」

「私……シュミット様から侍女の任を解かれてしまってメイドにされてしまいました! お願いです! どうか……どうか、今一度私にチャンスを下さいっ! 私は仮にも子爵家の娘です。メイドなんて……そんな仕事は出来ません!」

涙目になり、必死になってゾーイはオズワルドに訴えてくる。
このような目に遭いながらも、気位の高いゾーイはまだ諦められずにいたのだ。

そんなゾーイをオズワルドは忌々しげに睨みつける。

(全くこの娘は……。もともと侍女を解任されたのはミカエルとウリエルの世話をしてこなかった為に2人からの信用を得られなかったからだと言うことにまだ気付かないのだろうか? ミカエルとウリエルがゾーイを慕っていれば解任を反対しただろうからな)

「オズワルド様! 黙っていないで何かお答え下さいっ!」

オズワルドはため息をつくとゾーイを見た。

「ゾーイ、お前はもう終わったのだ。おまけに一体今、俺がここで何をしているのか、そんなこともお前には分からないのか?」

オズワルドの背後には彼が率いる騎士団の者達が剣の鍛錬をしている真っ最中だったのだ。そして騎士たちは鍛錬の手を止め、全員呆れ顔でゾーイとオズワルドのやり取りを見ている。

「分っております! 分っておりますが……このような酷い処遇……到底受け入れられません! お願いです! どうか力を貸してくださいっ! もう一度私が侍女に戻れるようにどうかお力添えをお願い致します!」

ゾーイはしまいにオズワルドのマントの端を握りしめて懇願した。

「放せっ! いい加減に諦めろ! ここから今すぐ追い出されなかっただけありがたく思うのだ!」

「そ、そんな……」

ゾーイは今や人目も憚らず、涙を流している。そんなゾーイに侮蔑を含んだ視線でオズワルドは見下した。

「……とにかくこれ以上訓練の邪魔をするなっ!早 くここから失せろっ!」

「!」

ゾーイは顔を覆うと泣きながら地下鍛錬所から走り去って行った。
その姿をざわめきながら見ている兵士たち。

「よし! 邪魔者はいなくなった! 訓練の続きを始めるぞっ!」

『はいっ!!』

よく通るオズワルドの掛け声に兵士たちは一斉に声を揃えて返事をした――

****

その頃、エルウィンの執務室では――

「良くやったな、シュミット」

執務室に戻ってきたシュミットをエルウィンは笑顔で迎えた。

「……珍しいこともあるものですね。エルウィン様が笑顔で私を迎えるなんて」

精神的に疲れ果てたシュミットがため息混じりに返事をした。

「そうか? 気のせいだろう?」

しかし明らかにエルウィンが楽しげにしているのは見て取れた。

「そんなに嬉しいですか? ゾーイ様を侍女から解任したことが」

「ああ、当然だ! くそっ……あの女……思い出しただけでも腹が立つ。俺のベッドに勝手に潜り込むとは。女でなければ叩き斬ってやるところだった」

「それは確かに男性がベッドに潜り込んでいればそうなるでしょうね」

ポツリというシュミットの言葉にエルウィンは鳥肌を立てた。

「こ、この馬鹿っ! 変なことを言うなっ! 鳥肌が立っただろうっ!?」

エルウィンは万年筆を握りしめながら怒鳴りつけた。

「申し訳ございません。決して変な意味で申し上げたわけではありません。ですがミカエル様とウリエル様の侍女の件は再度考えたほうが良いと思います」

「ああ、その件ならお前に任せる。俺は執務で忙しいからな」

エルウィンはそう言うと、傍らに置いた剣の手入れを始めた。

(全く……エルウィン様にも困った方だ……)

こうしてシュミットはミカエルとウリエルの侍女候補の件で再び頭を悩ませることになるのだった――
 邪魔なゾーイを追い払い、地下鍛錬所で部下達の指導を終えたオズワルドは自室へ向かって長く続く廊下を歩いてた。

すると前方からバルドとドミニコがこちらへ向かって近づいている。

(チッ! 全く面倒な……)

オズワルドは心のなかで舌打ちした。自分に用があって2人が来たのは分かりきっていたからだ。

3人の距離は縮まり、やがて互いが顔を突き合わせる。

「オズワルド、貴様一体今迄何処へ行っていたのだ?」

口火を切ったのはドミニコであった。

「我々はたった今、お前の部屋を訪ねていたのだぞ?」

バルドが非難めいた目を向けてくる。

「申し訳ございません。部下達を相手に地下鍛錬所で稽古を付けておりましたので……それで? 亡きランベール様の忠実な参謀であるお2人が一体私にどの様なご要件でしょうか?」

するとドミニコが顔を真っ赤にさせた。

「き、貴様……我々を馬鹿にしているのかっ!? 要件など言わずとも分かっているだろう!? ゾーイだ! 何故我等がミカエル様とウリエル様の侍女として選んだゾーイがあの若造の命令で解任されるのだっ!? 我等に何の断りもなく、おかしな話であろう!」

「そうだ! あの若造は我等の決めたことに口出しするのはお門違いだとお前は思わないのかっ!?」

バルドはオズワルドを指差し、怒鳴りつけた。

そんな激昂する2人を見ながらオズワルドは心の中で毒づいた。

(全く……。なんと愚かな輩共なのだ。結局いくらエルウィンがゾーイに侍女解任を決めたとしても、ミカエルとウリエルが反対すれば却下されたはずなのに、あの2人はそれを望まなかった……つまり全ての責任の所存は本人にあることに気付かないのだろうか?)

「しかし、この城の城主はエルウィン様です。我々が口を挟むことなどおこがましいでしょう?」

「な、何だと……? 貴様、本気でそのようなことを申しておるのか? いいから今すぐ皆であの若造の元へ行くぞ! 文句を言いにいかねばならん! 勝手に我々の決めたことに口を出すなとな!」

ドミニコの言葉にオズワルドは肩を震わせて笑い始めた。

「クックック……」

「何だ? 何がおかしい!」
「無礼者!」

バルドとドミニコが怒りを顕にする。

「一体何を言い出すかと思えば……本当に愚かな方々だ」

オズワルドは笑いを堪えながら2人を見た。

「誰が愚かだとっ!」
「我等を馬鹿にする気なのかっ!?」

口々に文句を言う2人にオズワルドはため息をついた。

「良いですか? 我等はもうランベール様と言う後ろ盾を無くしてしまった。今、エルウィン様に楯突いた所で得することは何もありません。下手をすればこの城を追われてしまうかもしれない。ここはミカエル様とウリエル様が成長するまでおとなしくしているのが得策だとは思いませんか?」

「ウグ……。そ、それは……」

「しかし、あの様な戦うことしか脳のない若造の言いなりになるのだけは……」

プライドが高いバルドとドミニコにはエルウィンの言いなりになるのは屈辱だった。

「とにかく、今は大人しくしていることですな」

オズワルドは鼻で笑うと悔しがる2人をその場に残し、自室目指して歩き去って行った――



****


オズワルドが自室へ戻って暫く経過した頃。

――コンコン

扉をノックする音が部屋に響き渡った。

「入れ」

オズワルドには誰がこの部屋にやってきたのか分かりきっていた。

「失礼致します」

扉が開かれ、姿を現したの金の髪の美しい少年だった。彼はオズワルドの忠実な下僕である

「どうだ? ロイ。あのエルウィンが気にかけていた娘のこと何か分かったか?」

ロイと呼ばれた少年は頷いた。

「はい、面白い事実が分かりました」

「ほう? それは何だ?」

オズワルドの眉が興味深気に動いた。

「はい、実は……」

ロイは自分が知り得た情報をオズワルドに説明していく。

その話を黙って聞いていたオズワルドにやがて不敵な笑みが浮かんでいった――

 ゾーイがミカエルとウリエルの侍女を解任されてから、早いもので5日が経過しようとしていた――


 その日の朝、アリアドネは仕事場で機織作業を行っていた。

キィ~
カタン
キィ~
カタン

足踏み機織り機で織物をしていると何者かが近づいてくる気配を感じ、アリアドネは顔を上げた。
すると今まで見たことも無い、まるで少年のような若い騎士がすぐ傍に立っていた。

金の髪に青い瞳。美しい顔の騎士はじっとアリアドネを見おろしている。

「あ、あの……何か私にご用でしょうか?」

無言のまま、あまりにも凝視してくるのでアリアドネは恐る恐る尋ねた。すると騎士はようやく口を開いた。

「オズワルド様がお呼びだ。すぐに連れてくるように言われている。今から一緒に来てもらう」

「え……?」

(だ、誰……? オズワルド様って……?)

けれどこの城で下働きと言う、一番身分の低い立場のアリアドネには騎士の言葉に歯向かうことが出来ない。

「は、はい……分かりました……」

アリアドネは椅子から立ち上がった。

「ついて来い」

騎士はアリアドネを一瞥すると背を向けて歩き出した。そして項垂れて、ついて行くアリアドネ。
そんなアリアドネをマリアやセリア達が心配そうに見つめているが、彼女たちも口出し出来ない立場にあるのだ。



 城へ続く地下通路に差し掛かった時……。

「待てっ! 彼女をどこへ連れて行く!?」

背後から声が地下通路に響き渡った。

「ダリウスッ!?」

アリアドネは驚いて振り向いた。

「……」

一方の若い騎士もゆっくりと振り向き、無言でダリウスを見る。感情のこもらない冷たい顔は見る者に美しくも恐ろしさを感じさせる。

「お前……一体アリアドネを何処へ連れていくつもりだ?」

ダリウスは騎士を睨みつけた。

「お前には関係ないだろう?」

「いや! 関係ある! 俺たちはあの作業場で一緒に働いている仲間だ! その仲間が連れ去られるのを黙って見ていられるはずが無いだろう? 早く彼女を返せっ!」

「ダリウス……」

アリアドネは青ざめた顔でダリウスを見た。別に騎士から拘束されているわけでもないので、無理やり連行されているわけではない。しかし、この騎士には何か言いようの無い迫力があり、言いなりになるしかなかったのだ。

すると騎士は無表情のまま、口を開いた。

「お前はダリウスだな? 越冬期間をアイゼンシュタット城で過ごす為にやって来た領民だろう? そして本来は城主の妻となる立場であったこの女を色々と気にかけている……。さては恋心でも持っているのか?」

「な、何だとっ?」

ダリウスが一歩前に進み出ようとした時……。

「動くな」

チャキッと金属音の小さな音が鳴り、驚いたことに騎士はダリウスに小銃を向けていた。

「「!!」」

あまりにも突然の騎士の行動にアリアドネとダリウスは息を飲んだ。

「そこから一歩でも動けば引き金を弾く」

騎士は顔だけではなく、声にも感情が宿っていなかった。

(いけない……! この人は……ほ、本気で撃とうとしているわ……)

アリアドネにも感じ取れるほど、騎士の身体からは殺気がにじみ出ていた。

「ダリウス……私なら大丈夫だから貴方は仕事に戻ってくれる?」

「し、しかし……」

ダリウスはアリアドネを見た。

「早く行け。あの方は待たされるのが大嫌いなのだ」

騎士の言葉にダリウスは従うしかなかった。

「わ、分かった……」

悔し気に返事をするダリウス。
何故なら歯向かえばアリアドネにも銃を向けるかもしれないと思ったからだ。

「なら早くここから立ち去れ」

騎士は今も小銃を構え、ダリウスに狙いを定めている。

「……くっ……」

ダリウスは悔しそうに下唇を噛むと踵を返し、仕事場へと戻って行った。

「……」

その後姿を黙って見つめていた騎士はやがて口を開いた。

「では行くぞ」

「は、はい……」


こうしてアリアドネはオズワルドの元へと連れていかれる。

彼の忠実な下僕、ロイによって――

カツーン……
カツーン……

ひんやりと冷え切った、人の気配が感じられない長く続く廊下。
そこをアリアドネは騎士ロイに連れられて歩いていた。

「……」

前方を歩くロイは先程から一言も話さず、ただ黙って前を見つめて歩いている。そしてその後ろを不安げな顔を浮かべて歩くアリアドネ。

(困ったわ……私は一体何処へ連れて行かれるのかしら……。先程、オズワルド様の所へ連れて行くと言われたけれども、オズワルド様とは一体どんな方なのかしら……)

考え事をして歩いていると騎士ロイと距離が空いてしまった。
すると彼はアリアドネを振り返った。

「さっさと歩くんだ。オズワルド様は待たされるのが一番嫌いなお方なのだから」

「は、はい。申し訳ございません」

慌てて謝罪したついでにアリアドネはオズワルドのことを尋ねようと思った。

「あ、あの……お尋ねしたいことがあるのですが、オズワルド様とは一体どの様な方なのでしょうか?」

「オズワルド様はランベール様の腹心であり、アイゼンシュタット城の第3騎士団長であらせられるお方だ」

ロイはアリアドネを見ることもなく答える。

「ランベール様の……」

アリアドネは口の中で小さく呟くも、ロイは全く反応はしなかった。

(私は何故呼び出されたのかしら……。恐らくこの方に尋ねても答えてくれないでしょうね……)

アリアドネは益々不安な気持ちがこみ上げてくるのだった――


****


「ここだ、この部屋にオズワルド様がいらっしゃる」

ロイは黒い扉の前で足を止めると扉をノックした。

――コンコン

「オズワルド様、アリアドネ・ステニウス伯爵令嬢をお連れ致しました」

「!」

ロイの言葉にアリアドネは自分の身元が完全にバレていることに驚いた。

『そうか、中に入れ』

扉の奥からは低音だが、よく響く声が聞こえてきた。

「聞こえただろう? 扉を開けて中へ入れ」

ロイはアリアドネに扉を開けるように指示した。

「はい……」

覚悟を決めたアリアドネは震える手でノブを握ると、ゆっく扉を開いた。

「失礼致します」

すると、正面に大きなマホガニー製のテーブルに向かって座るオズワルドの姿がアリアドネの目に飛び込んできた


「……お前がアリアドネだな?」

オズワルドは冷たい視線でアリアドネをじっと見つめた。

「は、はい……アリアドネ・ステニウスと申します。あの……私に何か御用でしょうか?」

「そうだ。用があるからお前を呼んだのだ。実はお前に頼みがあってな」

「頼み……ですか?」

「そうだ。実はランベール様には2人のお子様がいらっしゃる。名はミカエル様とウリエル様だ。そして2人に仕える侍女がいた。だがエルウィン様に無礼を働いて侍女を解任されたのだ。そしてその侍女は今はメイドしてこの城で働いている」

「あ……」

その話はアリアドネの耳にも届いていた。ランベールの子の侍女だった女がエルウィンのベッドに忍び込み、追い出された話は城中に知れ渡っていたからだ。

「今現在お2人には侍女がいない。そこで新しい侍女を探しているのだが……お前にその役を任せようかと思って呼んだのだ」

「!」

あまりにも突然の話でアリアドネは耳を疑った。だが、アリアドネは貴族令嬢としての嗜みである礼儀作法を習った事など無かった。

「も、申し訳ございませんが……私には貴族令嬢の嗜みが一切ありません。侍女の仕事などとてもではありませんが出来そうにありません。お許しください」

アリアドネは必死になって頭を下げた。

「それはお前が妾腹の娘で、一切貴族の教育を受けて来なかったからだろう? だがメイドとしてのキャリアは長い。だからこの際、侍女では無く専属メイドとしてお前に働いて貰おうかと思ってな」

「で、ですが……」

尚も言いよどむアリアドネにオズワルドは視線を向けた。

「まさか断るつもりではないだろうな? 元はと言えばランベール様が殺された事の発端はお前にあるということを忘れるな」

オズワルドの言葉にアリアドネは血の気が引いた――
「え……? 私がランベール様が殺害されることになった事の発端……ですか……?」

アリアドネは震えながらオズワルドを見た。

「ああ、そうだ。もとはと言えばお前がおとなしくランベール様に従っていればエルウィン様とて、激怒されてあの方を地下牢へ入れることはしなかっただろう。しかし、お前が騒ぎ立て、拒絶した為にランベール様は地下牢へ閉じ込められた。その結果何者かに殺害されてしまった。つまり地下牢へ閉じ込められていなければ、あの方は死ぬことは無かったのだ」

オズワルドの話は言いがかりも甚だしいものだったが、オズワルドに睨まれながらランベール殺害の発端を責められたアリアドネは冷静さを完全に失っていた。

「そ、それは……」

思わず項垂れるとさらにオズワルドは追い打ちをかける。

「お前はミカエル様とウリエル様を知っているだろう?」

「は、はい……一度…作業場にエルウィン様に連れられていらしたことがありますので……」

「あんなに幼い子供たちは、心から慕う父親を亡くしてしまったのだ。お気の毒だとは思わないのか?」

オズワルドは口から出まかせを言った。
ミカエルとウリエルがランベールを父として慕った事など一度も無い。何故なら2人の子供たちはランベールと一緒に過ごしたことは殆ど無かったからだ。

しかしオズワルドはアリアドネを脅迫する為に、あえてミカエルとウリエルの話まで持ち出してきたのだ。

「そ、それは……」

「お2人から父親を奪った責任を果たすべきであろう?」

「!」

その言葉は決定打となった。

(私が原因でランベール様は……。そしてミカエル様とウリエル様から父親を奪ってしまった……)

「承知致しました。謹んで…ミカエル様とウリエル様専属メイドを承ります…」

アリアドネはついに頷いた。

「よし、分かった。それでは近日中にお前の部屋を用意させよう。当然部屋はミカエル様とウリエル様の隣にさせる。お前はお2人の専属メイドなのだからな。こちらから連絡が行くまでは仕事場で通常通りの業務を行うと良い。そしてお前が正式にメイドになるまでは、このことは他言無用だ。分かったな?」

「はい、分かりました」

「よし、それならもうお前に用は無い。外にロイを待たせてある。そいつにもう一度仕事場まで送らせよう。何しろこの城はところどころ迷路のように入り組んでいるからな」

「……それでは失礼致します」

アリアドネは頭を下げると部屋を出て行った。


パタン……

部屋の扉が閉じられた途端、オズワルドは不気味な笑みを浮かべた。


「クックック……本当に何と単純な娘だ……」

思わず口に出して呟いていた。

(あの娘にならミカエルもウリエルも懐くかもしれない。まずは2人の信頼を得るように命じるか。それにあの潔癖なエルウィンも娘のことは気にかけているようだし。そうだ、ついでにエルウィンにも近づかせ…油断させて奴の弱みを握らせよう。何……どうせあの娘は私に正体を知られているのだからいいなりになるしか無いのだからな)

「アリアドネ……。これからお前には私の忠実な駒として働いてもらうからな……」

オズワルドの不気味な笑い声が部屋に響き渡った――
 パタン……」

アリアドネは扉を閉じて、顔を上げるとそこには人形のように美しい顔立ちの騎士……ロイの姿があった。

「要件は済んだのだな?」

感情の伴わない声で尋ねてきた。

「はい、終わりました」

「なら仕事場まで送る」

それだけ告げるとロイはアリアドネに背を向けて足音を立てて廊下を歩き始めた。
アリアドネは黙ってその後をついて行く。

カツーン
カツーン

(それにしても……何故この場所は人の気配が感じられないのかしら)

あまりにも静まり返っているのがアリアドネには不思議であり、」少しだけ怖かったので何か会話をしようと思い、前方を歩くロイに話しかけた。

「あの……」

「何だ?」

振り返ることも無く返事をするロイ。

「このお部屋の周囲は何だかとても……その、静かなのですね……」

「そうだ。オズワルド様は騒がしい環境がお嫌いだからな」

「そうですか……それでオズワルド様は一体どのようなお方なのでしょうか?」

すると……。

それまで振り返ることも無く前方を歩いていたロイが突如足を止めるとアリアドネに向き直った。

「そんなことを尋ねてどうする?」

まだ年若いロイにすごまれて、アリアドネは息を飲んだ。

「い、いえ……その……これから色々と接点が出来るお方になるのではないかと思いまして。それで少しお尋ねしただけなのですが……申し訳ございません。余計なことを口にしてしまいました」

アリアドネは素直に謝った。しかし、ロイの口から言葉が紡ぎ出された。

「……オズワルド様は……寡黙なお方だ」

「寡黙な……」

アリアドネが呟いたその時、前方から数名の兵士たちがこちらへ向かってやってきた。

(あ……! あの方たちはもしやランベール様にお仕えしていた兵士の方たち……!)

途端にアリアドネの頭の中に以前兵士たちに絡まれた時の記憶が蘇る。あの時はエルウィンが偶然現れて助けてくれたが、今回はそうはいかない。
アリアドネは目の前に立つロイが自分を助けてくれそうには到底思えなかったからだ。
何しろ彼はオズワルドの忠実な部下なのだ。そのような人物がわざわざ仲間を敵に回すようなことはしないだろう。

(ど、どうしよう……。どうかそのまま私の事を無視してくれますように……)

アリアドネはうつむいた。

「……?」

そしてそんな様子のアリアドネを不思議そうに首を傾げて見るロイ。

「どうした?」

ロイがアリアドネに声をかけたその時――

「ん? その金の髪……お前、ロイじゃないか?」

1人の若い兵士が声をかけてきた。ロイは黙って兵士たちを振り返る。

「お前、ここを通っていたってことはオズワルド様に呼ばれたのか?」

「ロイは女みたいな顔してるからな。オズワルド様に気に入られているんだろう?」

しかし、ロイは聞こえているのかいないのか無言で兵士隊の言葉を聞いている。

「チッ! 全く綺麗な顔していやがるくせに、相変わらず何考えているが分からない奴だな……ん?」

その時、1人の兵士が俯くアリアドネの姿に気付いた。

「へ~……女。お前汚い身なりのわりに、ずいぶん美人じゃないか……」

「!」

アリアドネにあの時の恐怖の体験が蘇る。

「確かにそうだな? どれ、俺たちとちょっと付き合えよ」

別の兵士がアリアドネに手を伸ばそうとした時……。

ヒュッ!

鋭い音と同時に悲鳴が上がった。

「ギャアッ!!」

え……?

アリアドネは目を見張った。

何とアリアドネに手を出そうとした兵士の手からは血がほとばしり、無表情で血の付いたダガーを握りしめるロイがそこに立っていたのであった――

「ギャアアーッ!!」

男の悲鳴が上がった。

「!」

アリアドネは男の悲鳴が恐ろしく、思わず耳をふさいだ。

「おいっ! マットッ! しっかりしろっ!」

1人の兵士が駆け寄る。

「貴様っ! 何しやがるっ!」

別の兵士がロイに襲いかかる。

ヒュッ!
ヒュッ!

ロイの両手が同時に動いた、次の瞬間――

「グアアアアアッ!!」

飛びかかろうとした兵士から悲鳴があがる。いつの間にか兵士の両太腿にはダガーが1本づつ突き刺さっていた。

「ウグッ!」

あまりの激痛に兵士は呻きながらその場にうずくまった。

「ロイ……き、貴様……何しやがるんだ……?」

1人、傷を負わされていない兵士が恐ろしい形相でロイを睨みつけた。

「この女はオズワルド様が目を掛けられた人物だ。よって手出しは許さない」

冷たい声で言い放つロイ。

「な、何だと……? まだガキのくせに生意気な……」

ダガーが突き刺さっている兵士は額に脂汗をにじませながら、激しい怒りの眼差しをロイに向けている。
一方、手を切られた兵士はその場にうずくまり、切り裂いた布で傷を押さえているものの、布は血で真っ赤に染まっている。

ロイはその兵士を冷たい目で一瞥した。

「早いところ、そいつを医務室に運んだほうがいい。指が取れかかっているからな」

「な、何だってっ!? き、貴様……っ! いつか殺してやるっ!」

ダガーを突き立てられた兵士が憎々しげにロイを睨みつけるも、ロイは全く表情を変えない。

無表情な顔で恐ろしいことを言ってのけるロイの姿にアリアドネはゾッとした。

(い、いや……怖いわ……この人……。あんなに綺麗な顔をしているのに平気で恐ろしい事を言うなんて……)

震えるアリアドネにロイは声をかけた。

「行くぞ」

「は、はい……!」

ロイは3人の兵士たちに目もくれずに歩き始め、アリアドネは慌ててロイの後を追った。

「貴様……覚えてろよっ!!」

兵士の怒鳴り声が大きく廊下に響き渡るのを聞きながら――


****

長い沈黙……。
息詰まる空気の中、ようやく仕事場へ続く階段に辿り着くとロイが振り返った。

「着いたぞ。ここから先は1人でもう帰れるだろう?」

「は、はい。大丈夫です。ありがとうございました」

アリアドネは丁寧に頭を下げた。

「オズワルド様の御命令だからな」

ロイはそれだけ言うと一度もアリアドネに視線を合わす無く元来た地下通路を歩き去って行った。

「ふぅ……」

1人になって、ようやくロイから開放されたアリアドネは安堵のため息をつくと目の前の階段を登り仕事場へと戻った。
するとすぐにダリウスが駆けつけてきた。

「アリアドネッ!」

「あ……ダリウス」

「アリアドネ、大丈夫だったのか? 何も危険な目に遭わなかったか?」

駆け寄ってきたダリウスはアリアドネの肩を掴んで尋ねてきた。

「え、ええ……私なら平気よ。何も危険な目に遭っていないわ」

アリアドネは嘘をついた。

(絶対にさっきの話は出来ないわ……。ダリウスが心配してしまうもの)

「そうか……。それなら良かった」

ダリウスが安堵のため息をついた時――

「アリアドネッ! 大丈夫だったのかい!?」

マリアとイゾルネが駆けつけてきた。彼女たちもアリアドネが連れ去られていく様子を見ていたのだ。ただ、相手がこの城の騎士だった為に成すすべもなかったのである。

「はい、大丈夫です。この通り、何でもありませんから」

アリアドネは2人に笑みを浮かべた。

「すまなかったね……相手が騎士様だったので、どうすることも出来なかったんだよ」

マリアが申し訳無さげに頭を下げた。

「何しろ、この城では騎士は特別な存在だから……」

イゾルネは唇を噛んだ。

「いいんです。手荒なことは一切受けていませんから。ただ……」

アリアドネの表情が曇った。

「どうしたんだ?」

ダリウスが声をかけた。

「わ、私……オズワルド様からミカエル様とウリエル様の専属メイドになるように命じられました……」

俯くアリアドネの言葉に、その場にいた3人は息を飲んだ――