「海〜?おはよう。」
 私は毎日、平日とか休日とか関係なく朝から晩まで海の病室に通った。
 朝、起きて朝ご飯を食べたらおにぎりと勉強道具を持ってすぐに病院に行った。
 もう中庭に行くことはほとんど無くなった。行けそうな時もあったけれど、いつ倒れるかも分からないので、行かなかった。
 その分、病室で勉強を教えてもらったり、家でのことを話したり、逆に海の出来事を話してもらったりした。
 海の教え方はとても分かりやすかった。分からないと言えば、もっと分かりやすく教えてくれるし、一つ一つ順序立てて教えてくれた。これならテストも余裕だ。
 受験さえも余裕かもしれない…。

 「おはよう。今日は早かったね。」
 海は前よりも治療に専念するために個室に移った。
 その分、少しだけ遠くなった。その分、少しだけ広くなった。海が小さく見えた。
 「うん、早く起きれたから。海こそ、起きるの早いね。」
 海はまだこのくらいの時間には寝ている。毎日、辛い治療をしているから疲れすぎて意識を失っていると言っても過言ではないくらいにぐっすり眠っている。
 「確かに。昨日は少しマシな治療だったからね。」
「そっか。ならよかった。」
 いつも通り、ベッドの横の椅子に腰掛ける。海はベッドの背もたれを少し上げて座っていた。顔は青白いし、辛そうではあるけど確かにいつもよりは元気そうだった。
 「あ、そうだ。中庭行けるよ。」
海が唐突にそう言った。
「え?」
「車椅子。車椅子で行けることに気づいた。押してもらうことにはなるけど。」
「え、そんなの全然いいよ。絶対行こう!」
私は、興奮しながら言った。すごい嬉しかった。今週、いや、今月で1番嬉しかった。
 海も笑顔だった。笑って頷いていた。

 「えっと、ここはここがXになるから、この式に当てはめてこの数値がYで……。」
 午前中は数学の勉強をした。海は数学がすごく得意で、どんな問題があっても全部すぐ1人で解いてしまう。
 結構置いてけぼりになっている。
 でも、海は楽しそうだったからそれで良かった。

 「そういえば昨日さ、お父さんが久しぶりに帰ってきたんだけどね、夏休み中に函館行くことになったの!」
お昼ご飯を食べている途中、私は急に思い出してそう言った。
 前に外食をしている時に言っていたことを覚えていてくれていて計画してくれていたのだ。
 「そうなんだ。函館か〜。いいな。俺も1回くらい行きたかったな。」
海はそう言った。悲しそうな顔で。もう行けないっていう風に。そんなの、辛くて見てられなくて、思いっきり目を逸らしてしまった。
 一緒に行こうって誘うつもりだった。頭の中ではそう思っていて、言葉になりそうだったのに口から出ることはなかった。もうすぐ死んでしまうかもしれない人を前にそんなこととても言えなかった。
 怖いくらい静かな沈黙が訪れて、私は俯いた。海は窓の外を眺めていて、2人とも何を言おうか考えていたのは同じだと思う。
 「中庭行こうか。」
しばらくの沈黙の後、海がそう口を開いた。
 海を車椅子に乗っけて、私が車椅子を押した。そういう人は家族に1人もいなかったから結構戸惑った。どのくらいの速さで押せばいいのかとかいきなり話しかけてびっくりしないかとか。
 改めて自分の未熟さに腹が立った。
「雪菜、なんかごめんな。」
「え?何が?」
いきなり謝られてなんのことなのかよく分からなかったからそう問い返した。
「いや、なんか諦めてるような事しか言えなくて。でも、正直、もう諦めてる。雪菜も知ってると思うけど、膵癌ってすごい進行早くて、重い病気で、生存率はすごい低い。俺はまだ早期の方ではあったんだけど、もうステージIVだし。」
ステージIVという意味は何となくわかった。確か、1番悪いステージだ。
「俺は結構前に両親も亡くしててばあちゃんと一緒に暮らしてたんだけど、仲悪くてもう見舞いにもこないし、ほとんど身内が居ない状態で。」
こんなに悲しいこと言っているのに、海の口調は特に変わらず、いつも通りだった。
 両親が亡くなったことに関しては予想通りで、海の言い方から幼い頃に亡くしたってことがわかった。
「だから、俺はもう正直生きる意味を失ってた。膵癌って言われて、余命1年だって言われて。悲しんでくれる人もいなければ、死ぬのが悲しいって思うこともなくて。前も言った通り、死ぬってことが嬉しかった。俺は雪菜に会えて良かったよ。まだ死にたくないって思えたよ。すごい元気になれた。
 でもな、俺、もう余命宣告されてからあと4ヶ月で1年経つんだよ。長くて1年って言われたし、もういつ死ぬかも分からない。だから雪菜。」
海は私の名前を呼んで振り返った。私は無意識に押すのをやめる。
「俺が死んでも雪菜は絶対生きて。俺の分も。俺はまだ未来があったはずだし、結婚とかしたかもしれない。きっと幸せなことも不幸なことも色々あったと思う。それ、全部、雪菜にあげるから。あと、70年くらいの寿命も全部あげるから、雪菜は長生きして。」
 海は目に涙を浮かべていた。きっと海だって生きたい。海だって生きて、色んなこと経験して、やりたいことだってあったはずだ。
 でも、もう死ぬことは避けられないってわかってるから、諦めてるんじゃなくて、受け入れてる。運命を、受け入れてる。
 「うん、私、海の分も生きる。」
そう言った途端、目から涙が零れ落ちた。ゆっくりと落ちていく涙に気づき、慌てて拭った。
 海、私も運命を受け入れるよ。