鼓動が早鐘を打って、肌に嶺さんの唇が押し当てられるたびに腰が跳ねる。嶺さんに抱きしめられる喜びを知ってしまったら、引き返せない。
 おそるおそる嶺さんに向かって手を伸ばすと、嶺さんが私の手を掴んで指を深く絡める。絡めた手ごと、私の左手を熱っぽい目で見つめた。

「知沙、結婚指輪を買わないか?」
「指輪……?」

 突然のことにあっけにとられてしまい、間の抜けた声が出た。

「でも、あるじゃないですか」

 嶺さんの左手には、銀色のシンプルな指輪が光っている。
 三年前、私たちの結婚が成立したときに嶺さんが自分で用意したものだ。
 ちなみに私の分は買っていない。書類だけの関係だから、必要だとも思えなかった。

「結婚指輪を買い替えたら、目ざとい社員に気づかれます。なにがあったのかと勘繰られますよ……?」
「知沙を妻だと公表する、いい機会じゃないか」
「でも、私たちが夫婦だと知られたら困るじゃないですか!」
「俺は困らないが、知沙は困るのか?」
「困っ……らないんですか?」

 真顔で訊き返され、考えこんでしまう。
 あの雇用契約については口外厳禁だったし、再会してからも嶺さんは結婚について職場では一切口にしなかった。だから結婚自体も口にしてはいけないのだと思いこんでいたけど、違ったということ?
 でももしも嶺さんの相手が私だと知ったら、秘書グループの皆さんはどう思うんだろう。

「やっ、やっぱり待ってください。社長と結婚していたのは私です、なんて今さらそう簡単には打ち明けられません。タイミングとか色々、考えないと……」

 騙していたと思われてもしかたない。
 まして、嶺さんと釣り合わない私じゃ反感を買うのも間違いない。
 かたや、ヨーロッパにも販路を広げた老舗時計メーカーの創業者一族の御曹司で社長。かたや、短大出の平社員。教養もないし格が違いすぎる。
 自分なりに一生懸命やってきたと思うから、卑下はしない。反感だって耐えられる。
 でも、ほんとうならいくらでも素敵な女性を選べる立場だったのに、私と結婚せざるを得なかった嶺さんの評判まで落ちるのだけは……。

「私は指輪がなくても平気ですし、嶺さんだってわざわざ新しい指輪を買う必要はないと思います。このままで……」

 繋がっていた手を引こうとすると、嶺さんに強く握りこまれた。