桜はとっくに散り、爽やかな風が吹くゴールデンウィークが近づいてきたころ。

「――噂以上の超人ぶりね、東堂社長。知沙ちゃんもついていくの大変でしょ」

 本社の裏通りにあるこぢんまりとしたベトナム料理屋は、私たちの行きつけの店だ。仕事中なのでパクチー抜きだけど、手頃な価格で本格的な味を楽しめる。
 窓際の席についた笠原さんは、運ばれてきたランチの鶏肉とトマトのフォーに口もつけずに形のいい唇を歪めた。

「毎日あちこち飛び回って、たまに会社にいると思ったらほとんど会議ばかりで社長室にいるのは数分だけ。それもずっと、眉ひとつ動かさない涼しい顔でこなすなんて、すごいわよね。前社長のときの大らかな空気とは大違い」

 普段はそれぞれの上司である役員と行動をともにすることが多いので、揃ってランチを取る機会は貴重だ。雑談がよく進む。
 今日は副社長付きの秘書である(みち)(なが)さんも一緒だ。
 通永さんは三十五歳の既婚者で、出産を機にロングだった髪をばっさりと切って以来、ずっとボブヘアを通している。
 おっとりとした性格と反対に仕事ぶりは真面目で、出産退職の意向を示したのを副社長が直々に引き留めたのは有名な話。
 その通永さんが四人がけの古びたテーブルの向かいで、バインミーと呼ばれるバゲットのサンドイッチから口を離した。

「涼しい顔って表現、社長にぴったり。常にフラットで、冷静。怒るところは見ないけれど、笑う顔も想像できないなんて言ったら失礼かしら。でも、根っからの仕事人間であることは間違いないわね。新規顧客の開拓も精力的にされているそうだけれど、合間には工房にも通ってらっしゃるんでしょう?」

 工場とは別に、東堂時計では工房を有している。
 職人の手作業による技が欠かせない、高級時計を作る拠点だ。東堂時計の心臓とも言える場所。
 そこに、新社長は予定の隙間を見つけては顔を出し、現場の声を拾っている。私は「そうなんです」とうなずいて続けた。