「あとはそうだな、これは個人的な要望だが。コーヒーはカップではなく、タンブラーに()れてもらえると助かる」
「はい。ブラックの濃いめ、熱々……でしたよね」

 新社長はちらっと私を見たけれど、それだけだった。
 あれ、もしかして。昔を覚えていて緊張してるのは私だけ?
 ほっとしておいてなんだと思うけれど、それはそれで複雑な気分。

「あ、あの、社長……」
「なんだ? ああ、羽澄さんの要望を聞くのが遅くなった。これから円滑に仕事をするために君から私になにか要望はあるか?」
「え、私の……ですか?」

 質問する気勢を削がれた上、思いがけない申し出に、私はぽかんとしてしまった。

「そうだ、最初に要望をすり合わせておけば、トラブルも避けられる」

 そう言われても相手は東堂時計の社長。
 おいそれと口にできるわけもない。
 それに、これまでずっと自分のことは後回しにしてきたから、いきなり私の要望なんて聞かれても思いつかないのが正直なところで。

「特には……ありません」
「承知した。だがなにかあれば、すぐ言ってくれ。ああそれから、必要になる機会もおいおい出てくるだろうから、プライベートの電話番号も教えておく。むやみにかけることはないが、君の番号も教えてほしい」

 新社長は仕事用の顔をわずかも崩すことなく、私用のスマホをジャケットの内ポケットから取りだした。
 私のスマホはあいにく鞄の中だ。番号を言うと、新社長は復唱しながら登録を終えた。そのまま発信ボタンをタップして、ワンコールして切る。

 私のスマホには、社長からの着信履歴が残ったはず。あとで登録しておかないと。

 ――三年前ですら、連絡先の交換はしなかったのにな。

「では、さっそく得意先へ挨拶回りにいく。羽澄さんも同行しなさい」

 最後まで崩れなかった社長の表情に、私のほうが顔を(ゆが)ませそうになって、仕事の顔をとりつくろった。