「えっ? あっ、私が取りに……」

 嶺さんは私の返事も待たずに腰を上げると、リビングを出ていく。
 戻ってきた嶺さんは、手にドライヤーを持っていた。私は受け取ろうとして立ちあがったけれど、嶺さんが私の肩に手を置く。

「座って」

 軽く肩を押され、私はすとんとふたたびソファに沈んだ。
 戸惑う私を意に介さず、ソファに座った嶺さんが体をひねって私の髪をすくう。
 耳に心地のよい声で指示されたら、抵抗なんてできない。
 ドライヤーのスイッチが入って、ただ伸ばしただけのストレートの長い髪がドライヤーの風になびく。
 硬い手が髪に()き入れられる。かすかに頭皮に触れる手の感触に、意識が集中してしまう。

「あの、自分でできますから……」
「いや、俺がやりたいんだ。心配しないでくれ、慣れているから」

 ぎゅ、と胸が締めつけられたような気分がして、私はうつむいた。慣れているって? 昔の彼女……とか?
 待って、なんでそんなことを私が気にするの。
 嶺さんなら、彼女が何人いたっておかしくない。容姿、能力、家柄と揃っていて、さらに無自覚で人たらしを発動する人なんだから。
 そう、だから形だけの妻である私は軽い口調で聞けばいい。聞かないでモヤモヤするほどの関係じゃない。

「慣れているって……?」
「君に言ってなかったか? 俺には上に姉が三人いるんだ。幼いときには、姉たちのドライヤー係を命じられていた。揃いも揃って我が強くて、俺はこき使われてばかりだったな」
「ああ、そういう……嶺さんの少年時代を想像したら微笑ましくなりました」

 お姉さん。
 なんだ、よかった。

「三人が強い分、俺は自分の意見を言えない子どもだった。だがそれでは東堂時計を率いるのは難しいと、両親は懸念していたらしい。事あるごとに、嶺はどう考えるんだと訊かれたな。おかげで、姉三人をまとめながら自分の意見を通す術を身につけた」
「だから今の〝社長〟がいらっしゃるんですね」

 会社でも、嶺さんは反対意見を真っ向から否定しない。
 その上で自分の主張もする。だから早すぎると言われていた社長就任でも、驚くほど敵が少ないのだ。

「君は昴君をこき使わなさそうだ。察するに、ショートケーキの苺(いちご)を譲っていたタイプじゃないか?」
「そのとおりです。嶺さん、なんでわかったんですか?」
「君を見ているからな」