聞けば、嶺さんはこれまで食事に頓着したことがなかったらしい。
 多忙でゆっくり食べる暇もない上、大半が仕事の絡む食事では味わうこともままならなかったんだろうな。

「久しぶりに、ちゃんと食べたという気がする。ごちそうさま。うまかったよ」

 本心からだとわかる笑みで箸を置いた嶺さんに、私はほっと胸を撫でおろした。庶民の味が口に合うか心配だったけれど、よかった。

「こんなのでよければ、いつでも作ります。だから、あの……ときどきでいいですから、夕食をご一緒できたら」
「いいのか? 君に負担がかかる」
「負担なんかじゃありません。私も嶺さんと一緒のほうが嬉しいですし」
「……そうか」

 嶺さんが噛みしめるようにつぶやく。私は思い立って腰を上げた。

「食後のお茶を淹れてきますね」
「知沙」
「はい?」

 キッチンへ向かいかけた足を止め、嶺さんのほうをふり向く。会社では見られない、優しいまなざし。体温がじわりと上がる。
 ひと言ひと言をゆっくりと区切るように、嶺さんが言った。

「食事。楽しみにしている」




 キッチンでお湯を沸かしてハーブティーを淹れると、やがてりんごに似た優しい香りがほわりと立ちあがった。
 白い湯気はやわらかくて気持ちがほぐれていくけれど、そろそろアイスティーの季節かもしれない。一度、訊いてみよう。
 嶺さんに買ってもらったマグカップに注いで、リビングに運ぶ。先にソファに腰を下ろしていた嶺さんが私のほうを向いた。

「この香り。すっかり知沙の香りだという認識ができた」
「刷りこまれました?」

 私は思わず笑いながら、マグカップをソファ前のテーブルに並べる。

「刷りこみか……言い得て妙だな。いつのまにか侵食されている」