「会社でも嶺さんがお戻りの際は『おかえりなさい』ですし、仕事の気分が抜けませんよね」
「いや。帰宅するたびに、妻がいるというのはいいものだと思う自分に驚くんだ」
「そ……うですか」

 かあっと顔が熱くなった。飾り気がない言葉の分、胸を直撃されてしまう。

 しかも嶺さん自身は涼しい顔だから困る。無自覚な人たらしは罪だ。
 だけど今日の嶺さんは、いつもより疲労が濃い気がする。

「ひょっとして、お食事もまだですか?」
「ああ……よくわかったな。急な用件が入って食べ損ねた」
「でしたら、なにか胃に優しいものを作ります。すぐできますから、先にお風呂どうぞ」
「君が作ってくれるのか?」

 嶺さんが意外そうにする。出すぎた真似だったかな。

「すみません。よけいなお世話だったら……」
「いや。ありがとう」

 切れ長の目がやわらかくなる。私はほっとして、バスルームに向かう嶺さんと別れてキッチンに入った。
 今日も嶺さんは働き詰めだったな、と嶺さんのスケジュールを思い返して口元がへの字になる。
 朝は運転手が迎えに来るので、私も一緒に乗せてもらっている。そうすれば、車内でその日の予定を打ち合わせることができるからだ。
 だけど出社すればたちまち嶺さんは会議が続く。合間に来客対応をして、お昼はビジネスランチ。
 午前は時差の関係でたいてい海外とのウェブ会議なので、社内の会議は主に午後だ。
 ほかにもプレス対応、取引先との打ち合わせ、直営店やデパートの中で展開する店舗の視察などと息つく暇もない。

 今年は創業七十周年を迎えるため、各種イベントの準備も加わる。そのすべてに責任を負うのだから、心労も計り知れない。
 出汁の優しい香りがキッチンに満ちて、嶺さんがお風呂から上がってくる。嶺さんがダイニングテーブルに腰を下ろすのを見計らって、私はにゅうめんを出した。鶏ささみに玉ねぎ、スライスしたしいたけが入った、胃に負担の少ないメニューだ。ふわりと湯気が立つ。

「大したものではないですが、どうぞ」

 嶺さんは丁寧に手を合わせると、綺麗な所作で食べ始める。その顔がしだいにゆるむ。