「笠原さん、前社長付から新社長付にスライドねえ。どうせ決め手はあの顔と体なんじゃない? やっぱり美人は得だわ。……あら、羽澄さん早かったのね。笠原さんが呼びにいったはずだけど」

 先輩のひとりが私に気づいて気まずそうな顔をする。私は会話には気づかなかったふりで微笑んだ。

「はい、おかげで遅刻せずに済みました。笠原さんも、もう戻ると思いますよ」

 多少のやっかみはあっても、先輩たちはそれでチームワークを乱す人じゃない。だから私も、空気を読んでさらっと聞き流す。自席につくと、ほとんど同時に笠原さんも戻ってきた。
 やがて経営企画室唯一の四十代である男性の経営企画室長が、こんがりと日に焼けた肌に白い歯を覗かせてやってくる。
 ところがその背後から、すらりと背の高い男性が現れた瞬間。涼やかな風が吹きこんできたかのように空気が切り替わった。

 新社長だ。

 身長は百八十二、三センチはあると思う。スーツだと足の長さがいっそう引き立つし、均整が取れた体つきも爽やかながら男らしい。
 ライトグレーのスリーピースにダークネイビーのネクタイがこなれている。先輩たちがざわつくのも無理はない。
 なにより顔がいい。
 自然な感じにととのえられた黒髪が、面長の顔を端正に縁取っている。鼻筋は高く、眉はすっと筆を刷いたよう。
 切れ長の目は涼しげで、年齢と立場なりの威厳もにじみ出ている。威圧されたわけでもないのに自然と従おうという気になるのは、その威厳のせいかもしれない。
 先輩たちがほうっと目元を赤く染め、立ちあがった。私も慌てて腰を上げる。

 だけど先輩たちの目が新社長に釘付けの中、私は複雑な気分だ。「本日付で着任される東堂嶺社長だ。社長、これから社長の手足となって働く経営企画室秘書グループのメンバーです」

 東堂社長は室長の紹介に応じて軽く自己紹介すると、気負いや妙な(ごう)(まん)さのない、芯の通ったよく通る声で挨拶を締めくくった。

「先代のよいところは(とう)(しゅう)しつつ、刷新をためらうことなく、東堂時計を世界じゅうに広めたい。そのために、君たちの力を貸してほしい」

 自信に裏打ちされた、堂々とした表情。
 それでいて私たち平社員にも「力を貸してほしい」という言葉を使う、謙虚で丁寧な物腰。

 東堂新社長はあっというまに秘書グループの面々の心を(わし)掴みにしていた。

 ただひとり、私を除いて。
 だってどんな顔をすればいいのかわからない。

『引き受けてくれるなら、それなりの手当を毎月支払う』

『つまりは、妻という肩書きに対する手当』

 三年ものあいだ会うことすらなかった、書類上だけの関係。
 私は――お金で雇われた妻だから。