「……あれは驚いた」

 深行は雇用契約に先駆けて社長に働きかけ、知沙を秘書グループに異動させていた。俺が忙しすぎて言う機会がなかったと深行はうそぶいたが、真意は知らない。
 激務続きで、私的なメールひとつ打てないほど疲れ果てていたのは事実だが。
 香港赴任で疲弊し、すり切れた心が無表情という形を取って現れただけというのに、なぜかその状態を超人だと褒めそやされたのは余談だ。
 ともあれ、あいにく顔合わせの際も異動の話はなかった。だから、香港から戻り知沙が秘書グループにいると知ったときの衝撃は大きかった。

 だが、深行の言うとおり知沙が秘書グループにいてくれてよかったと思う。
 でなければ社長交代で業務が押し寄せたこの時期に、知沙と接する時間など今以上に作れなかったに違いない。
 深行が小さく笑い、テーブル上の書類を片づけ始める。

「顧問弁護士の立場からひとつアドバイスすると、あの契約書が有効な限り羽澄さんは法的にお前のものだ。どう、安心した?」

「わかってる」と、俺が口を開く前に不破が続けた。

「だけど羽澄さんの心に執着するなら、紙切れの上であぐらをかいている場合じゃない」
「執着か……」

 離婚をする気などない。
 あのころと変わらず俺のことばかり気にかける。そんな知沙の本質に触れておいて、手放せるわけがない。
 それを執着というのなら、俺はとっくに知沙に執着している。