『いや、いただくよ』
『じゃあ……どうぞ。そのお茶、安眠を促す作用もありますから、たっぷり飲んでたっぷり眠ってくださいね』

 知沙が自身の目元を指して言う。その洞察力に驚いた。(くま)はできていなかったはずだが、違和感があったのだろう。
 誰にも気づかれなかったのに、ろくに眠れていないことに気づかれるとは。

 香港支社は立ちあげこそできたものの、日本とは異なる商習慣と労働に対する姿勢の違いもあり、順調とは言いがたかった。
 日本人はおおむね真面目で勤勉だが、あちらでは口頭での約束事などあってなきがごとし。予定どおりに進まない(しわ)寄せは日本からの出向社員に集中し、誰もが手一杯だった。休暇を取る余裕もない。
 しかし支社長という立場では、弱音は吐けなかった。

『仕事の進捗は気にされても、俺自身を気にかけられたのは初めてだ』
『じゃあ……少なくともひとりはこれからも支社長を気にかけていることを、覚えていてください』

 知沙が泣きそうに顔を歪めたと思ったら、やわらかくほころばせた。笑みが咲く。
 とっさに声をかけようとして、俺らしくもなく言葉に詰まった。
 ただ、ホームへと階段を降りる知沙のうしろ姿を、目がいつまでも追いかけていた。



「――たしかに、あの日の彼女がずっと心の中にいたかもしれない」

 形だけとはいえ知沙が妻でよかったと、あのあと受け取ったハーブティーを車の中で飲みながら安堵したのを覚えている。
 だが、あくまでも契約結婚。あのころは目の前の仕事に押し潰されないようにと必死で、形だけの妻を顧みる余裕はなかった。
 慎重に言葉を選んだが、深行は納得がいかなかったようだ。

「そんな優しい目をしておいて、煮え切らないな。彼女が秘書グループにいてよかったと思うだろう?」