「えっ……それは、あの」

 無意識に裾を掴んでいた手を離すと、社長が「冗談だ」と苦笑した。今度こそ背を向けてしまう。
 どうしよう。このまま社長をソファに寝かせたら、秘書として失格だ。体調管理どころか、社長の足を引っ張るだけなんて。
 逡巡の末、私はきっぱりと言った。

「あのっ……私は夫婦らしくでも、いいです」

 社長がふり返る。反射的に目を逸らしそうになったけれど、こらえた。一緒に寝たって、上司でもある社長となにか起きるはずがない。
 それでも、じわりと耳元が熱くなるのは止められなかったけれど。

「わかった」

 寝室に戻ると、社長はクイーンサイズのベッドの掛け布団をめくり、ためらいなく体を横たえた。
 これで社長の疲れも取れるよね。
 だけどいざひとり残されると、扉の内側で突っ立ってしまった。足を一歩前に出すのは、ひどく勇気が要る。

「別になにもしないから、安心しなさい」

 ぽかんとして社長のほうを見ると、社長は明らかにベッドの端にいる。しかも壁のほうを向いたままだ。これでは私だけが変に意識しているみたいで、恥ずかしい。
 私は「失礼します」と断ると、反対側からぎくしゃくとベッドに上がる。

「あの……社長、ありがとうございます。それから、ご迷惑をおかけしてすみません」
「君はこれまで、人に甘えた経験がないんだな。ひと晩寝る場所を貸すくらいで、そんなに恐縮しなくていい」

 素っ気ないのに、どこか胸に優しく触れるものがある。社長がもぞもぞと動く気配がした。

「こっちを向いてくれ、知沙」
「っ、社長」

 名前を呼ばれると、考えるより先に従ってしまう。
 それは上司だからだとか命令口調だからという理由ではなくて、私を呼ぶ社長の声が()()をやわらかく撫でるせい。
 ドキドキしながら反対側を向くと、鋭くも穏やかな視線とぶつかった。
 社長が手を伸ばしてくる。

「っ……」

 思わず、息をつめた。
 洗いざらしの髪を硬い手がすくう。
 社長の息遣いを耳が拾ったとたん、その場所から熱を帯びていく。
 吸いこまれるような目から逃げられない。