「でも、夫婦だといってもなんの実体もないですし」
「返せるものがないと君は言うが、三年前も言ったとおり俺はこの関係で大きなメリットを得ている。ほかに理由がないなら、離婚はしない」

 当時、社長は厄介な縁談から逃れたいのだと不破さんから聞いた。相手が東堂家の身内のため、一般的な断りでは効果がないのだと。

「でも、あのときとは状況が……今はおなじ職場です。もし誰かに私たちの関係がバレたらどうしたら」
「俺はかまわない」
「待ってください、バレたら困るのは社長ですよ」
「それほど慌てるということは、むしろ困るのは君なのではないか? ほかに結婚を望む相手ができたのなら、はっきり言ってくれ。契約書にもそう書いたはずだ」

 とんでもない、と私は激しくかぶりを振る。

「私には恋愛なんてお門違いです。そうじゃなくて私はただ、私たちが形だけの関係だと知られて……万が一にも契約のことを知られたら、社長が窮地に陥るのではないかと心配なだけです。社長は私たち姉弟の恩人ですし」

 言いながらきゅっと唇を引き結ぶと、社長の手が伸びてきた。
 唇に、硬い指先の感触。
 えっ、えっ。なに? なんなの?
 目を見開いた私の唇を、社長がやんわりとなぞる。まるでスローモーションみたいに、ゆっくり。

「唇を噛むのはやめてくれ。俺が責めたみたいで、少々滅入る」

 社長の指が離れていく。
 とたんに全身の血が勢いよく流れ始めた。
 ドッ、ドッ、と鼓動が激しく鳴る。

「とにかく、離婚はしない。俺自身に問題があるなら話は別だが」
「社長に問題なんてな……いえっ、あります……っ」

 ないと言ってしまえば離婚できない。そう思ってとっさに言い直すと、社長の視線が険しくなった。

「なんだ?」

 どうしよう。思いつかない。でもなにか言わないと。
 社長の視線から逃げるようにして、カクテルをひと息に飲み干す。だけど困ったことに喉はまだカラカラ。もう一杯だけお代わりをもらう。
「遠慮はいらない。教えてくれ、知沙」
 ひゅっと息をのみこんでしまった。まるで夫婦だと知らしめるためかのように、名前で呼ばれたから。