「書類上では夫婦になりましたが、この三年間、正直に言ってなにもしていません。それなのにこれ以上、お手当をもらうのは気が引けます」

 弟が無事に大学へ進学するのを見届けて満足したかのように、母がその年の初秋に亡くなって。でも、弟の夢を潰えさせたくなかった。
 臨床実習で憧れの医師から直接指導を受けられる利点はあれど、現実問題として、私大の学費は思いのほか私の肩に重くのしかかっていた。だから、雇用契約は渡りに船で。
 三年間、社長個人から支払われるお手当に、どれだけ助けられたか。

 でも、弟ももう今は大学四年生。
 前期の授業料は振りこんだし、あと二年半分の授業料はこれまで学費に充てた残りの手当と、私のお給料を貯めた分でなんとかまかなえるはず。

「派遣社員から正社員にしていただいただけでも感謝しているのに、手当までいただいて……お返しできるものがないのは心苦しいです」

 高額すぎる手当てを受け取るたび、これで学費が払えるという(あん)()や感謝とともに、罪悪感にも似た感情が募るのをどうすることもできなかった。

 社長と私では釣り合わないからという理由もある。だけど口にはしなかった。わざわざ口に出してみじめな気分になりたくない。

 社長は思うところがある様子で、グレーのスーツに包まれた長い足をゆったりと組み替えた。()(はく)(いろ)の液体が入ったグラスを(あお)る。
 喉仏が上下するのが目に入る。思わぬ男の色香に当てられ、私は目を逸らした。
 ところが私の視線を追うようにして、社長が私のほうに身を乗りだした。

「俺は、離婚する気はない」

 キレのある低音が私の耳をくすぐる。
 背中がぞくりとするのを感じつつ、思わぬ言葉に社長を凝視した。