連れていかれたのは、東堂時計本社から一駅分離れた場所にある隠れ家的なダイニングバーだった。
 セレクトショップのテナントが入る一階横の細い階段前には、店の看板もなにもない。しかし階段を上り、時代を感じさせる黒塗りの扉をくぐると、古めかしくはあるが古びてはいない、居心地のよい空間が広がっている。

 金曜日の夜だけあって、照明が絞られた店内はほどよく埋まっているようだった。
 私は社長に連れられて窓際に面したカウンター席に腰を落ち着ける。
 繁華街に位置するだけあって、窓の外に目を向ければライトアップされた街路樹や通りを行き交う人々の笑う顔がよく見下ろせた。

「ここは食事のメニューも豊富だ。コース料理はあいにく用意がないが、好きなものを頼んでくれ」

 正直、ほっとした。コース料理なんて出されても緊張で味がしないに違いない。
 だいたい、お財布が泣いてしまう。けれどここなら、たまの贅沢と思えばギリギリ支払える範囲内だ。よかった。
 バーは静かすぎず、かといって大声で騒ぐ客もおらず、ちょうどよい具合の喧騒だった。離婚話がほかの客に聞かれる心配もなさそう。
 社長の言葉に甘えて、私は生ハムと前菜の盛り合わせとほうれん草とトマトのキッシュを頼む。それから少し迷ってカンパリオレンジを頼んだ。
 飲み会にはほとんど参加した経験がないので、お酒の種類には詳しくない。自分がお酒に強いかどうかも、正直に言うとわからない。でもこれなら名前にオレンジとあるくらいだし、飲みやすそう。

 運ばれてきた飲み物で乾杯する。遠慮なく食べるようにという言葉に甘えたのと、(せい)(ぜつ)なイケメンを隣にして食べないと()が持たないという(しょう)(そう)めいた理由で、私はさっそく料理にも手をつけた。