終業後まもなく、私は役員フロアにある応接室に通された。ソファの向かいで温和な笑みをたたえる不破さんを前に、さっそく切りだす。

『先日の返事の前に、ひとつだけ質問させてください。なぜ、私なんですか?』

 返事はほとんど決めたも同然だけれど、そこだけは確認したかった。

 支社長と直接の面識なんてない。にもかかわらず、なぜあんな突拍子もない提案を私に持ちかけたのか、どれだけ考えてもわからない。
 無意識にソファから身を乗りだした私に、不破さんは言った。

『そうですね……この件を支社長から一任されるにあたって、一応、調べさせていただきました。仕事ができて口が堅いこと、なおかつお金を必要としており雇用契約が受け入れられやすい相手であること。失礼を承知で言いますが、羽澄さんはこれらの条件に合致していました。ただ決め手はそこではありません。羽澄さんの人柄なら、あるいは嶺……東堂支社長を変えてくれるのではないかと思いまして』
『変えるなんて恐れ多いです。お会いしたこともないですし』

 嬉しいというより恐縮してしまう。
 正社員に登用されてまだ日も浅い私が、若くして香港支社長にまでなった人にしてあげられることなど、ないに等しいと思う。

『それに……形だけの妻なんですよね?』
『そうでしたね。私の勝手な願望に過ぎませんから、気にしないでください』

 承諾を得る前に口を滑らせたのを恥じてか、不破さんが笑い飛ばす。でも、条件が合致したという無味乾燥な理由だけではないという事実は、私が用意していた返事を口にする最後のひと押しになってくれた。

『そう言っていただけるなら……東堂支社長のお話を、お受けしたいと思います』