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『僕が今からお伝えする内容は、くれぐれも他言無用でお願いします』

 三年前の春。入社式から一週間ほど経った肌寒い日の午後だったと思う。
 その年、ありがたくも派遣社員から正社員に登用され、同時に総務部から経営企画室秘書グループに異動したばかりの私は、東堂時計の顧問弁護士に職場の応接室でそう前置きされた。

 顧問弁護士は()()()(ゆき)と名乗った。三十代前半くらいだと思う。一見、無造作なようでいて丁寧にととのえられた黒髪が、甘さのある顔を縁取っていた。人の警戒心を無意識に解きほぐす雰囲気だ。
 それでも、いきなり顧問弁護士なんて人に呼び出されたので緊張してしまう。

『羽澄さんは、東堂嶺香港支社長をご存じですか?』

 不破さんは私の緊張をやわらげるように微笑んだ。

『え? はい。たしか、香港支社立ちあげの立役者ですよね』

 国内では確固たるブランドイメージを築きあげている東堂時計だが、数年前から高級時計の海外進出も積極的に進めるようになった。その一環として去年立ちあげられたのが、香港支社だ。
 立ちあげに貢献した彼がそのまま初代支社長に就任したのは、記憶に新しい。

『その東堂支社長が、妻になる人間を探しています。事情があって、早々に話をまとめたいらしくて』

 話の向かう先がわからなくて、(あい)(づち)も打てない。

『妻といっても、書類上だけの関係でいいそうです。一緒に住む必要も、彼の妻として振る舞う必要もありません。ただ婚姻届に判を押せばいいそうなので、一度検討してもらえませんか』
『……は、え?』

 私は目を見開いた。今、なんて?

『引き受けてくれるなら、支社長はそれなりの手当を毎月支払うそうです。つまりは、妻という肩書きに対する手当ですね』