忘れられていたわけではなかったようで、ほっと胸を撫でおろす。

「不満でもできたのか」
「そういうわけではないんです。ただ、これまでとは環境も変わりましたし、お伝えしたいこともあって」
「わかった。早いほうがいいか。今夜……もあいにく会食が入っているが、そのあとなら。どうだ」
「え? もちろん! 私はかまいません」

 私の都合を確認されるとは思わなかったので、焦って声が大きくなった。言ったあとで、恥ずかしくなる。

「では、今日は会食が終わるまで待機してくれ」

 社長がかすかに口元を綻ばせたように見えたのは……気のせい?



 その夜。
 得意先との会食場所である歴史を感じさせる趣の料亭に到着して、先に車を降りた私は、社長に先方への手土産が入った紙袋を渡した。

「先方のお嬢様が高校に入学されたそうですので、入学祝いも添えております。それからこれは差し出がましいかもしれませんが、社長に」
「私に?」

 差しだしたドリンク剤を手にして、社長が眉を寄せる。

「就任されてから会食続きですし、今日はコーヒーもたくさんお召しあがりでしたので胃が荒れがちではないかと思いまして。食事の前に飲むといいそうですので、よかったら」

 このところ気になっていたのだ。
 普段、私の同行は会食場所までで、終了後の付き添いはしていない。だから実際に社長の体調変化を目にしたわけではないけれど。
 社長にはせめてもう少し、自身の体を気遣ってほしい。

「あの、不要でしたら――」
「いや、飲む」

 社長は即答すると、キャップを開けてドリンク剤を一気飲みした。
 私はほっとして空瓶を受け取り、頭を下げる。これで少しは胃への負担が軽くなるはず。

「いってらっしゃいませ」
「……ああ。では待たせて悪いが、またあとで」
 一見、なんてことのない言葉。だけど驚いて私が顔を上げたときには、社長は出迎えの女将とともに料亭の玄関をくぐったあとだった。

 ――いつもより声がやわらかかった、よね。

 あんな声、初めて聞いた。
 けれど、どうしてそんなことがいちいち胸にくるの。
 三年間、紙切れ一枚で繋がっただけの関係を、いよいよ終わらせるというのに。