内扉を開けていたので、笠原さんの声はよく通る。社長が自席で顔を上げた。

「いや、今はいい」
「そんなこと言わずに。ずっとおなじ姿勢では疲れますよ」

 笠原さんは言いながら社長席の前まで近づき、社長のタンブラーを取りあげた。

「知沙ちゃん、社長のタンブラーが空になってるわよ。もっと早く気づいてあげなきゃ」
「すみません、すぐに淹れます」

 私は慌てて笠原さんから社長のタンブラーを受け取る。

「私が気づいたからよかったけど、次から気をつけなさいね。社長のサポートが私たちの仕事なんだから」

 はい、と私が返事をするより先に、社長が普段の涼やかなテノールにわずかな険を含ませた。

「君、下がってくれ。私には羽澄さんがいる。君は専務のサポートに集中しなさい」
「っ、失礼しました」
 笠原さんの頬にさっと朱が走る。笠原さんはそのまま踵を返すと、社長室を出ていった。

 社長はといえば、何事もなかったかのようにふたたび資料に目を落としている。なんとなく声をかけづらくて、私はコーヒーを淹れることにした。
 集中したそうな様子だったから、ブラックは朝よりもさらに濃いめ。
 パントリーを出て社長室に戻ると、私はすっかり外界をシャットアウトしたふうな社長のデスクにそっとタンブラーを置いた。

「ありがとう。君の淹れるコーヒーがいちばんほっとする」

 びっくりした。いつもは黙ったままだから、話しかけられるとは思わなかった。

「……けっこう濃いめにしたんですが、こちらでよかったでしょうか?」
「ああ、おかげで仕事に集中できそうだ。これからも頼む」

 そう言うと、社長はまた資料にすっと目を落とした。社長と秘書。それ以上でも以下でもない。でも突き放されたとは感じなかった。
 意識したら、頬がふわっとゆるんだ。ささいなことだけれど、胸の奥にぽっと灯りがともったような感じ。

「あの、社長」

 社長がいぶかしげに資料から顔を上げた。

「お仕事中に申し訳ございません。あの……一度お時間いただけないでしょうか? 私の契約についてお話が」

 私が社長の左手薬指に視線を向けると、社長も察したようで表情を引きしめた。