「おかしかったわ、頭は真っ白だったのに、社内文書をこの引き出しに入れたら雇用契約書の紛失に気づかれる、って妙に冷静に考えられたんだものね。雇用契約書を持ち出すことにためらいはなかったわ。社内文書は、知沙ちゃんが発送準備をしてた封筒に入れた」

 誰かに見つかる前に、と社長室から逃げ戻ったあとで、笠原さんは私の万年筆まで引っ掴んでいたことに気づいた。
 けれど、もう一度社長室に戻るのはリスクが大きい。そのうち、拾ったとでも言って返せばいい。
 そう思いながらも返せないまま、日が過ぎ――。

「そんなとき、知沙ちゃんの家族だという人からの電話を受けたわ。その人は知沙ちゃんの保護者だと名乗った。そして知沙ちゃんは最近人が変わったようで心配だ――そう言ったわ。それで……雇用契約のことを話してしまったの」

 電話の主は伯父さんだった。笠原さんは、こんな結婚は世間が認めないと訴え、求められるがまま契約書の写真を伯父さんに送ったのだという。

「だけど、この万年筆のせいですべて台無し。社長に気づかれて、すべて白状させられたわ。社長があんなに恐ろしい方だなんて……知らなかった」

 笠原さんは思い出したふうに肩を震わせた。そんなに怖がるだなんて、どんなやり取りだったのか……想像もつかないけれど。
 しかしそのときは契約書の原本が手元にあるのを言いそびれ、こうして私のところに来たということだった。
 笠原さんは、膝の上で手を揃えて頭を下げた。

「悪かったと思ってるわ。……ごめんなさい」
「笠原さん、どうして? 笠原さんは美人で社交性も高くて、私にとっては頼れる先輩であり姉のような人でした。なのにどうしてそんなこと」

 わからなかった。クールビューティーそのものの笠原さんは、物言いもハキハキしていて仕事だってできる。私の憧れだった。
 私は笠原さんの、丁寧にセットされた長い髪や彫りの深い顔立ちを見やる。