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 夕食の支度をしていると、玄関の鍵が開く音がした。嶺さんが帰ってきたらしい。
 キッチンの中からリビングの壁掛け時計を見ると、まだ夜の七時半だった。おかしいな、今夜は会食と聞いていたけれど。

「おかえりなさい。早かったですね」

 手を拭いて玄関に出ると、シャツとスラックス姿の嶺さんが廊下に上がってくる。

「先方の都合で会食がキャンセルになったんだ。……今から夕食か?」

 リビングに入った嶺さんが、ネクタイをゆるめながら出汁と醤油の匂いのするキッチンを見る。

「はい、ひとりですし簡単にすませるつもりだったんです」

 嶺さんは会食のときが多いので、平日の夜はほとんどひとりだ。
 夕食を一緒にしたいという提案が実現した日は、まだ片手で数えるほどしかなかった。だから久しぶりのチャンスだ。

「でも、久しぶりに夕食をご一緒できますね!」
「俺もおなじことを思っていた。先方には悪いが、ラッキーだと」

 いつも涼しい目が心なしか輝いている。え、うそ、かわいい。
 七歳上の男の人、しかも上司にそう思うのは失礼かな。けれど職場の嶺さんはあまり表情を動かさないだけに、ギャップに胸がくすぐられる。
 ……そんな嶺さんを守るには、どうしたらいい?

「俺もやろう。手を洗う」
「えっ、いいですいいです。それより今のうちにお風呂をどうぞ」

 物思いに沈みかけた私は、慌ててかぶりを振った。ネクタイを外し、シャツの袖を肘までまくった嶺さんが、からかいまじりの表情で私を覗きこむ。

「これでも、少しは役に立つと思うが」
「でもお疲れでしょうから、ゆっくりしてほしいです」
「また君はひとりで気を回す。だがそれは、頼りにならないと突き放されることと変わらない」