「どこかに転がったのかもしれないな。俺も注意して見ておこう」

 ひとまず追及せずにおく。職場でもあると思い直し、俺はわずかな未練を残しつつ手を離した。
 知沙はほっとした顔で手を引き寄せると、タブレットを表示させた。

「すみません、業務と関係ない話をしてしまいました。ところで、会議のメンバーですが――」

 知沙は笑顔をとりつくろっていたが、その日は帰宅してからもずっと上の空だった。
 その張りつめた顔が、いつまでも俺の頭に貼りついていた。




 翌朝、俺は出勤すると社長室へ向かう知沙と別れ、専務の個室に立ち寄った。
 知沙の同僚秘書である笠原なら、彼女から話を聞いているかもしれない。
 それに今回の件は別としても、笠原には思うところがあった。知沙が社外への発送物を取り違えるというミスをした際、気づいて対処したのは笠原だったが――。

「おはようございます、社長。今日も素敵でいらっしゃいますね。専務でしたら、まだ出勤されておりませんが」

 社長室と同様の造りだがひと回り狭い部屋を覗くと、笠原という秘書がやってきて頭を下げた。東堂時計の秘書は爪を綺麗に塗っている者が多いが、笠原もそのようだ。
 しかしモーヴピンクに塗られた親指には、ストレスによるものなのか爪を噛んだらしい痕があった。
 知沙の手入れの行き届いた短い爪とは、ずいぶん差がある。

「知っている。だから来たんだ。君に聞きたいことがあってね」

 専務室から手前の秘書の席へ戻る。笠原が内扉を閉めるのを待って切りだした。

「笠原さんはたしか、羽澄さんと親しかったね? 昨日、彼女の様子がおかしかったのだが、なにか聞いていないか?」

 いえ、と笠原がかぶりを振る。

「でも知沙ちゃ……羽澄さんは気が利くように見えて、案外抜けてますから。またミスをしたのかもしれませんね」
「抜けていると感じたことはないな。いつも助かっている」