『久しぶりだね、知沙』
「……っ、伯父さん」

 私は口をつきかけた悲鳴をのみこんだ。嶺さんが伯父を牽制してくれて以来、連絡はなかった。だから油断していたのだ。
 嶺さんが不在の社長室には私しかいないにもかかわらず、私は思わず声をひそめた。

「本日は、どのようなご用件でしょうか」
『他人行儀な態度はいただけないね。本来なら知沙から私に連絡するべきところを、忘れていたのかい?』
「それは先日、夫が同席の上でお返ししますとお伝えしたはずです」

 あの日の嶺さんを思い返すだけで、恐怖心が薄れていく。私はきっぱりと電話口で告げたけれど、伯父はまったく動じなかった。

『知沙は社長にそんな手間をかけさせるのかい? 秘書失格じゃないか』

 それを言われると痛いし、声が震えそうになる。
 でもここで引いたら、あの日守ってくれた嶺さんの気持ちを台無しにしてしまう。そんなのは嫌。

「夫はそんなことで私を秘書失格だと思うような人ではありません。お借りしたお金の件については、夫の都合を確認してからあらためて連絡します」

 電話口の向こうで、伯父が沈黙する。
 ところがややあって、伯父の声音が低く……暗く切り替わった。

『――その社長さんとの結婚は、ただの雇用契約なんだろう』

 ぎくりとして、受話器を取り落としそうになった。

「なん、の話……」

 喉がカラカラに乾く。脈が一気に乱れて騒ぎだす。
 なのに頭が真っ白で、まともな思考が出てこない。なんで伯父さんがそのことを知ってるの……!?

『知沙は、金で買われた妻なんだろう? そうと知っていれば、私がなんとしてでも昴の学費を工面してやったのに』
「おっしゃる意味がわかりません……っ」
『私に隠し事はいけないよ、知沙。仮にも老舗時計メーカーの社長が金で妻を買ったと知れたら……一大スキャンダルだと思わないかい?』

 なぜ伯父が誰にも話したことのない契約について知っているのかは、わからない。けれど、これは脅しだ。
 伯父とふたりで会うのを、私が拒否したから。

「私たちはちゃんと夫婦です。勝手な憶測を言わないでください」

 私がしらを切ると、伯父はあっさりと『そうなのかい』と引き下がった。だけどほっとしたのもつかのま。

『私も、かわいい姪にこんなことは言いたくない。だが最初から、あの社長が知沙を選んだのをふしぎに思っていたんだよ。知沙はいい子だが、それだけじゃないか。むしろ契約だと知って納得したよ』

 いい子だが、それだけ。契約だと知って納得した。
 優しい声をまとった(とげ)が胸を刺し、私は電話口でぎゅっと唇を噛む。

『しかし納得したからといって、大事な姪が弄ばれた事実は変わらない。知沙が我慢するなら、私からあらためて代表電話にかけてみよう。御社の社長さんは金で社内の人間を、それも秘書を妻として買ったと言ったら、噂になるのは間違いないね。それじゃ、失礼するよ』
「――待ってください!」

 噂なんて大したことはない、否定すればいいだけ。そう思うのに、考えるより先に口走っていた。
 ただでさえ、創業七十周年を控えて積極的に広告宣伝を打っている時期。そんなときに社内で不穏な噂が立ったら? それが外に漏れたら?

 嶺さんの立場が、危うくなる……!