「朝陽、泣いてんのか?」


 振り向かなくても声でわかる、月の声だ。


 あぁ、いやなところを見られた。前もそうだった。


 月は弱いものがきらいで、私が学園祭の話し合いがうまくいかなくて、空き教室で泣いているところを、弱いだのきらいだのと追い討ちをかけるように言ってきたことがある。


 今、またいやなことを言われたら心がばらばらに砕け散ってしまいそうだ。お願いだから口を開かないでほしい。


 「月には関係ないでしょ」と、私なんてほっといてほしいという思いで振り向かずに素っ気なく呟く。


 「ふーん。あっそ」と言って月はいってしまった。


 月の気配がなくなると、糸が切れたかのようにまた私の目からは涙が出る。


 もう、いやだ。私は、私でいたくない。つらい。


 すると「おい」と、月の声がさっきより近くからした。


 最悪。


 そう思いながら、涙を手でふきながら目を開けると、ブランコに座る私の目の前に、目線を合わせるように月が座っている。


 「お疲れ。これやるよ。暗くなる前には帰れよ。じゃあな」


 そう言うと彼は、私がいつも休み時間に飲んでいる、紅茶のペットボトルを置いて帰っていった。


 批判するようないやなことを言われなくてほっと安堵する。あ、しまった。


 また彼にありがとうと言いそびれた。


 ペットボトルの蓋に力を入れるとカチッと音がして蓋が開く。


 一口飲んで、しばらくブランコに座って沈んでいく夕日を眺めた。


 日がほとんど沈んであたりが薄暗くなってきた。


 散々泣いて涙も止まったし、そろそろ帰ろうと思ったとき。


 「私も新米保育士のときうまくいかないことあると、よく公園でひとりで泣いたなぁ」と、背後から声がして振り向くと理依奈先生がいた。


 「となり座ってもいい?」と、優しい表情で理依奈先生が言った。


 少しどきどきしながらうなずくと、彼女はとなりのブランコに腰を下ろす。


 理依奈先生は私服姿だったが、黒のワンピースがやけに色っぽくて、すごく大人で綺麗な女性に高校生である私の目には映った。


 このまま街に出たら声をかけられてしまうのではないだろうかとさえ思う。


 「理依奈先生、職場体験ではお世話になりました」


 「朝陽ちゃんもお疲れ様。保育園じゃないところでは先生って呼ばなくていいよ。本当は堅苦しいの苦手なんだぁ」


 ふわりと微笑む彼女の表情に、女の私でさえうっとりしてしまう。


 それに、こんな年下の私にまでフレンドリーに優しく話しかけてくれて、仕事もできるし非の打ち所がない。


 私はそんな完璧な理依奈さんに憧れを抱く。


 「理依奈さん。せっかくの貴重な職場体験だったのに、なにもできず良いとこなしでした」と、私は自虐的な苦笑いをした。


 「最初は誰だってそんなものよ」


 「月のほうが、子どもたちとうまく関われてたし、いろんな場面で動きも冷静でした。それに子どもから人気だった…」


 「保育園に大人の男性って少ないから、特に男の子たちは荒っぽいパワフルな遊びを求めてるのよ」


 「健太君と柚木ちゃんが私の目の前でケンカしたとき、なにもできなかったんです。本当は理依奈さんみたいにうまく止めたかったんです」


 すると理依奈さんは、私の予想外なことを言い出して、私は目を丸くした。


 「ケンカなんて止めなくていいのよ」と、理依奈さんはどこか懐かしむようなそんな表情で目を細める。


 「ケンカを止めなくていいんですか?」と、私は自分の考えが追いつかなくて首を傾げた。


 「そりゃ怪我をしないように、子どもたちが殴ったり蹴ったりするのは止めるよ。でもね、ケンカさせない保育が良い保育じゃなくて、ケンカしてもお互いの気持ちがちゃんと伝え合える保育が良い保育なんだよ。だから今日は健太君と柚木ちゃんのケンカから、みんなで考えて気持ちを伝え合って鬼ごっこのルールを決めたよね」と、理依奈さんが夜空の月よりも明るく、そして美しく微笑んだ。


 「本当にすごいなぁ。気持ちが伝え合えるって素敵だと思います。私、感動しちゃいました」


 「まぁ、私もこれは受け売りなんだけどねっ」と、理依奈さんがいたずらな笑みをした。


 「すごいなぁ理依奈さんは、こんなに優しくて、美人だし、保育の仕事もスマートにできて。私の理想の女性ですよ。理依奈さんは完璧です」


 理想そのもので雲の上のような存在である理依奈さんに、私は賞賛を込めて言った。


 すると、理依奈さんの顔が少し曇る。


 「朝陽ちゃんが、そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、私なんか全然まだまだだし。私よりも完璧な人っているんだよ」


 「理依奈さんより完璧な人?そんな人いるんですか!?」


 「その人はね、困った子どもがいると、保育園の外で知らない子どもでもすぐ助けようとするし、自分が本当はつらい思いをしてても、いつでも周りに優しくできる人なの。それにね、可愛くって恋愛上手なの。永遠に追いつけない私の憧れの人なんだよ」


 理依奈さんの憧れの人だなんて、どんなすごい人なのだろう。


 「その人は保育士なんですか?」


 「そう、私が前に働いていた保育園の先輩保育士なの」


 「もし良かったら、その人のお名前教えてください」


 いつかその人と会うことができるかもしれないと、私は好奇心で訊ねた。


 すると、理依奈さんから驚くべき名前が飛び出した。


 「その人はね。犬塚晴さんっていうの」


 犬塚晴。どこか聞き覚えがあるその名前…、すぐに私の脳がフル回転する。


 悠さんの苗字と同じ、犬塚。


 悠さんは言っていた。奥さんからギターを教えてもらったと、そして奥さんも保育士だと、ギターを弾く女性保育士は少ないと。


 昭彦さんは、私が桜舞公園で女性に助けられた話をしたら、晴ちゃんみたいと言った。


 そして私の中の一番古い記憶で、その女性はたしかに私に名乗ったのだ。


 『ねこもとはる』と…。


 点と点が線になって繋がっていく。


 絶対そうだ。そうに違いないと私は確信した。


 悠さんの奥さんが犬塚晴さん、私が幼い頃に助けられた人、旧姓が猫本晴さん。


 胸の高鳴りが止まらない。ずっと私の憧れでその人の影響で保育士になりたいと思ったのだ。


 そんな人がこんなにも近くにいたなんて。まさに灯台下暗し。


 来週の月曜日、桜舞公園ですぐに悠さんに事情を話して合わせてほしいとお願いしよう。


 私は心の中でそう決心した。


 理依奈さんとは連絡先を交換して、またお茶でもしにいこうと約束をして解散した。