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 ────少し時を(さかのぼ)る。

「お嬢さま!」

 人里を離れ、桜の丘まで紫苑は脇目も振らず軒車を飛ばした。
 春蘭がひとりで赴く場所などここくらいしか思い当たらない。

 果たしてそこで佇む春蘭の姿を認めた途端、心の底からひどく安心した。
 素早く下車した彼は、しかし(とが)めるような険しい顔で怒りを(あらわ)にしている。

「し、紫苑……」

「どういうおつもりですか! おひとりでふらふらどこかへ行ってしまうなんて……。宮中でもあんなことがあったのに、また何かあったらどうするんです!」

 朔弦の存在とかどわされたという事実は、今朝の時点で彼にも伝えていた。

 無理にでも同行すればよかった、と嘆く紫苑をどうにか(なだ)めてとりなしたところだったのに、またしても蒸し返すような真似をしてしまった。
 彼は(こと春蘭に関しては)ただでさえ極度の心配性であるというのに。

「ごめんなさい、勝手に……」

「まったくです。何のためにわたしがいるとお思いですか? ……どうか、もう離れないでくださいね」

 最後の部分だけは声色がちがって聞こえた。案ずるがゆえの怒りは萎み、切実な気配が滲んでいる。

「え、ええ……」

 眉を下げる紫苑の揺らぐ瞳を、半ば困惑しながら受け止めた。
 ふと口端を持ち上げた彼はいつも通りの微笑を取り戻す。

「……参りましょうか。予定通り施療院へ向かいますか?」

「そう、ね。光祥とも話しておきたいし」

 薬材の一件が煌凌を通じて王に伝われば、事態が一気に動き出すかもしれない。
 天下の蕭家が黒幕とはいえ、王なら裁くことができるはずだ。



 かくしてふたりは施療院へ赴いたものの、光祥の姿は見当たらなかった。
 不思議に思っていると、ちょうど背後から肩を叩かれる。

「……光祥! どこ行ってたの?」

「町でちょっと大変な話を聞いてね……。まったく予想外の展開になった」

 驚く春蘭に硬い表情で答えた光祥は、困ったとでも言いたげに腰に手を当てた。

「予想外とは?」

「ああ……触れ文の話は知ってるよね。その首謀者として左羽林軍の大将軍が捕まったらしい」

「左羽林軍の……って、確か謝悠景とかいわなかった?」

 堂で夢幻も交えて朔弦の話をしたとき、彼がその名を口にしていた覚えがある。

「そうそう。きっと甥の朔弦も牢の中だろうね」