瞬いた次の瞬間、あたりは桃源郷(とうげんきょう)のような景色へと移り変わっていた。
　ほのかに甘い香りに包まれ、霞みがかった夢のような光景の中にいる。

　自らの意思であの桜のある丘まで歩いてきたはずなのに、いつの間にかたどり着いていたという具合だ。
　優しく穏やかな空気が場を満たしている。

　丘の上の根元に人影が見えた。膝を抱え、蹲るように座り込んでいる。
　顔は見えないが直感的に“彼”だと思った。

「どうしたの」

　さく、さく、と芝を踏み締めながら上っていき、そう声をかける。
　彼はそろそろと頭をもたげ、揺れる瞳で春蘭を捉えた。

「そなた……」

「今日は追われてないみたいね。その割に元気ないけど、何かあった？」

　少し間を空けて隣に腰を下ろすと、春蘭は窺うように彼を見やる。

　横顔からして息をのむほど整った顔立ちだ。
　初めて会ったときも同じ感想を抱いたが、落ち着いて見るとその美しさが際立って感じられる。

　しかし、やはり瞳にも表情にも翳(かげ)りがあった。長い睫毛の落とす影は暗く、儚げな印象が強い。

「……平気だ。いまに始まったことではない」

「本当に？」

　そうは見えないけど、と続けようとして、自ずと声が詰まった。
　彼がゆるりとこちらを向いたからだ。もの悲しげなその双眸(そうぼう)におさまる。

「それより……名を教えると約束したな」

　覇気はないが、ひどく優しい声色だった。

「わたしは、黎(れい)煌凌(こうりょう)だ」

　ざぁ、と梢(こずえ)が吹き揺れ、散った花びらが吹雪のように降り注ぐ。

「────煌凌」

　春蘭がそう名を繰り返すのを聞いた彼はわずかに瞠目(どうもく)した。
　いつぶりだろうか。こんなふうに名を呼ばれたのは。

　何となく心がくすぐったくなって顔を逸らした。
　ふわふわと羽根に撫でられたような心地がしたが、初めての感覚に戸惑ってしまう。

「……あなた、武人なの？」

「え？」

「それ」

　春蘭の指した先には鞘(さや)におさまった剣があった。
　また山賊に追われては面倒だと思い、煌凌が帯刀(たいとう)してきたものだ。いまは芝の上に置いてある。

「あ、ああ……十六衛(じゅうろくえい)に属している」

　十六衛は宮廷の兵士の総称である。
　あれこれと素性について追及されてはこれまた面倒だと思い、適当に嘘をついた。

「そうなの!?」

　春蘭ははっとした。なんと時宜(じぎ)に適ったことだろう。
　十六衛の兵であるならば兵部尚書のことも知っているだろうし、さらには左羽林軍の“彼ら”についても何か聞けるかもしれない。