聞こえてきた芙蓉の声に、弾かれたように顔を上げる。

「お嬢さま、失礼してもよろしいですか?」

 続いて耳に届いたのは紛れもなく紫苑の声だった。声色も語り口も普段通りだ。

「……ええ、入って」

 ほっと安堵の息をつきながら促し、入ってきた彼の姿を確かめた。全身を眺めたが、目立った外傷はない。
 髪や衣も整っており、誰かと争いになったような形跡もなかった。

「よかった。怪我はない?」

「はい、大丈夫です。尾行にも気づかれていません」

 紫苑は春蘭の心情を()み、先回りして懸念点を潰した。安心させるように微笑んで見せる。

「でも、どうしてこんなに遅かったの? 何かあったの?」

「それが────……」



 ────昨晩、笠の男は施療院を出たあと人気(ひとけ)のない道を選びながら足早に歩いていった。
 笠も身なりも影のように黒ずくめで、半ば闇に同化している。

 とても“若さま”には見えず、密偵(みってい)と言われた方が納得がいく。
 蕭家の次男の使いか、あるいはまったく無関係の第三者といったところだろう。

 あたりを警戒しながら歩を進める男のあとを、紫苑は物陰に隠れつつ足音を消して追った。

 そうしてたどり着いた先は、あろうことか宮殿であった。

『……?』

 行き先が蕭邸(しょうてい)だったなら予想の範囲内だったため驚かなかったが、これはさすがに想定外だ。紫苑は困惑した。

 笠の男は門衛(もんえい)と顔見知りなのか、通行証なしで宮中へ入っていった。
 しかし、紫苑はそういうわけにいかない。

 門衛とは当然面識がないし、手形だって持ち合わせていない。
 仮に持っていて宮中へ入ることができたとしても、さすがに尾行はバレてしまうだろう。

 紫苑は息をつき、一度帰ろうかと(きびす)を返したもののすぐに思い直した。これでは収穫がないも同然である。

 知りたいのは、男が誰と会うのか、ということだ。
 宮殿に入ったところを見ただけでは誰の配下なのかは結局分からずじまいである。

 かくして紫苑は辛抱強く粘り、男が出てくるのを待つことにした。