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 鳳邸の門前で光祥と別れた春蘭はこそこそと門を潜り、庭院(ていいん)の木や茂みの陰を盗人のごとく進んでいった。

 裾を引き上げ、足音を忍ばせながらどうにか部屋のそばまでたどり着いたとき、ざっと砂利(じゃり)を踏む音が響く。

「春蘭」

 びくりと肩が跳ねた。射抜かれた心臓が止まるかと思った。

「お、お父さま」

 春蘭の部屋から漏れる灯りがぼうっとその姿を照らし出す。
 元明は普段通りの優しい微笑をたたえていた。

「夜桜もいいものだね。月が出ていればもっと見栄えがしそうだ」

「えっ? あ、ええ……ほ、本当ね……」

 春蘭の外出には気づいているはずなのに、それには一切触れずに桜を見上げながらそんなことを言った。

 内心の焦りとそぐわず、つい気抜けした返事をしてしまう。
 
 昼間は薄紅に見える花びらだが、いまは雪のような白色をしていた。
 確かに夜空によく映えていて、満月でも浮かんでいればさぞ幻想的な光景となっただろう。

(怒ってない……?)

 話があるのは確かなようだが、外出の理由を尋ねたり咎めたりする気配はない。
 元来(がんらい)、元明が怒ることなど滅多になく、これまでに怒られた記憶もないのだが。

「紫苑はどうした? 一緒じゃないのかい?」

「えっと……紫苑は使いに行ってもらってるの!」

 取ってつけたように誤魔化したものの、元明は「そうか」とだけ答え、それ以上追及することはなかった。

「────春蘭」

 もう一度、そう呼ばれた。今度は先ほどよりも引き締まった謹厳(きんげん)な声色に感じられた。
 顔を向けた春蘭は父の横顔を見上げる。

「今日の朝議で、妃選びを執り行うという議案が可決された」

 それは(おみ)たちが慎重に議論を重ねた結果とは言えず、容燕の一存(いちぞん)で強行されたようなものであったが、あくまでそんな言い方はしなかった。

「妃選び……?」

「そう、主上の正妃(せいひ)を選ぶんだ。春蘭もその候補者になる」

 心臓が重たげな音を立てる。
 十六という(よわい)(かんが)みれば妥当な頃合いだろうが、婚姻など考えたことがなかった。
 まして王へ嫁ぐなど現実味のない話である。

 動揺を禁じ得ない様子の娘に笑いかけ、元明は控えめに頭を撫でてやった。

「……一応ね、事前に伝えておこうと思っただけなんだ。心の準備が必要だろうから」

「……ありがとう、お父さま」

 いざそのときになっても覚悟が決まるかどうか自信はなかったが、その心遣いは素直にありがたいものだった。

 複雑な心境で中途半端なぎこちない笑みを返した春蘭は、名前も顔も知らないこの国の王に思いを()せる。

(王さまってどんな人なのかしら……?)