気が滅入っているのは、蕭派の娘との婚姻が実質決定したせいだけでなく、そんな初恋の少女を諦めなくてはならなくなったからだった。

 名前も分からずもはや捜しようもないが、あのまま健やかに成長していれば恐らく春蘭と同じくらいの年頃だろう。

(……諦めるほかないのか、何事も)

 乾いた心が()ち、穴が空いていくような感覚を覚えた。
 空洞を隙間風が通り抜けると、何とも寂しく虚しい気持ちになる。

 名ばかりの王には、容燕の横暴を責め咎めることもできない。
 今後、王は蕭派の娘を妃に迎え、さらに圧倒的な力を手にした蕭家の傀儡(かいらい)にされるのだろう。

 元明の思案通り“我慢”だけが、彼が玉座に留まることのできる唯一の方法だった。

 こく、こく、と茶を飲み干した王は椅子から立ち上がる。

「ありがとう、元明。余はそろそろ行かねばならぬ」

「いいえ……。わたしはいつでもここにおりますから、茶が飲みたくなったらおいでください」

 戸の前まで見送ってくれた元明の穏やかな微笑を受け、王の強張った表情がほんのわずかだけ和らいだ。ほんのわずかだけ、心が安らぐ。

 そのまま出ていこうとしたが、直前で「そうだ」と思い出したように足を止める。

「余が王であることは、春蘭には秘密にしておいてくれぬか?」

 その言葉に元明は不思議そうに瞬いた。いったい何のためだろう。
 尋ねる前に王が続ける。

「気を、遣わせたくないのだ。初めて……まっすぐ余と目を合わせてくれたから」

 “初めて”と告げるかどうか少し迷った挙句、そう口にした。伏せた瞼の裏を桜の花びらが流れていく。

 元明は王が抱える幼少期からの孤独を、最もよく分かっている。

 しかし、いかに寄り添ってやりたくとも、立場を揺るがすような危険を冒すほど()()()はなかった。

 その一方で、宰相の地位を守り抜くことこそが最大限の優しさであるとも言えた。
 元明が宰相であるゆえに、王は“雨風”を凌げているのである。容燕を制することができているわけだ。

 鳳家のため、王のため、立場を守らなければならない元明は、ただこうして菊花茶を淹れてやることしかできない。

「……分かりました」

 表情を変えることなく、ただただ穏健(おんけん)な笑みを返して頷いた。
 彼の求める自分を(つくろ)って応じたのだった。

 優しい元明に王は顔を綻ばせる。
 殺伐(さつばつ)とした朝廷において、元明だけは王を見下すことも見限ることもしない。王にとって唯一の臣下であった。