「えっ!?」

 瞠目(どうもく)して混乱を(あらわ)にするが、彼は一切取り合うことなく歩を進めていく。

「ち、ちょっと……ちょっと待ってください!」

 焦りながら声を上げた。
 その場に留まろうと足に力を入れても、それより強く引っ張られていってしまう。

 無視して沈黙している彼を見上げ、さっと青くなった。脅しでも何でもなく本気だ。
 ますます慌てた春蘭は「待って!」とひときわ大きく声を張る。

「わたし……わ、わたし、医女じゃないんです!」

 ぴた、とようやく彼の歩みが止まった。
 つんのめってぶつかりそうになるのをすんでのところで踏みとどまる。

「……医女じゃない?」

 悠然(ゆうぜん)と振り向いた彼はすっと手を離し、怪訝(けげん)そうな面持ちで春蘭に向き直る。

「どういうことだ」

「それは、その……」

「身分を偽ったということは宮人(きゅうじん)ですらないのか。それで盗みをはたらいたとなれば、錦衣衛じゃ済まないな」

 それこそ羽林軍の出番なのかもしれない。そしてその場合、罪人とみなされた春蘭の命はないだろう。

 固く目を閉じ、諦めたように深々と息をついた。
 この状況における自衛の手段はひとつしかない。春蘭の武器はそれだけだ。

「……わたしは、鳳家の娘です」

 初めて彼の顔色が変わった。
 さすがに予想外だったらしく、わずかに瞠目している。

「何だと?」

「鳳春蘭と申します」

「おまえが……鳳家の姫? 宰相殿の娘御(むすめご)だというのか」

 こく、と素直に頷いて答えた。眉を下げたまま言を紡ぐ。

「先ほども言いましたが、今回のことはわたしの独断です。家や父は関係ありません」

「理由も先ほど言った通りか」

「……はい」

 それを受けた彼は目を伏せ、自身の額に手を添えた。困り果てて項垂(うなだ)れるような仕草だった。

 彼女に非があり罪に問えるだけの口実があっても、鳳姓が矛や盾として免罪符(めんざいふ)になってしまうのだから厄介なのだ。

(……面倒なことになった)

 これでは自分の方が責めを負う羽目になりかねない。
 何せ、鳳家の娘を宮中で攫って捕縛(ほばく)していたのだから。
 何人(なんぴと)たりとも迂闊(うかつ)に手を出せない名門家の姫君を。

 鳳姓も蕭姓も特別気高い(かばね)であるために、その血筋と無関係な民が同姓を持つことはありえない。

 ましてそんな高貴な姓を(かた)るなどという行動は反逆と大差ないほどの自殺行為であるため、彼女が難を逃れるためにでたらめを口にしている可能性も低かった。
 その言葉自体に疑いの余地はない。

「あの」