混乱を極める。
 かどわされた、という事実がそれに拍車(はくしゃ)をかけ、心臓が慌ただしく収縮していた。

 焦りながらもほどこうともがくが、結び目は固く、暴れても少しも緩まない。

 ほどくのは無理だ。
 何か縄を断ち切れそうな刃物はないだろうか。

(ここは……)

 そのとき初めて、自分のいる場所に意識が向いた。
 室内を見回せば、宮中にあるどこかの部署の執務室のようだった。

 部屋の奥と中央にそれぞれ几案(きあん)と椅子が置かれ、棚や机上には多くの本が積まれている。
 奥の机は部屋の主のものだろう。中央のそれは会議用か、部下が一時的に使うものか。

 しかし、いまは書物置きとしてしか機能していないようだ。床に座る春蘭からは、その表紙までは見えない。

「────目が覚めたか」

 不意に聞こえた男の声に、びくりと思わず肩を跳ねさせる。

 どこから聞こえたのか分からず戸惑ったが、視線を振り向けるとその姿を捉えられた。
 中央の几案(きあん)にそびえる本の山の向こう側に、背を向けて立っているのが見える。

 艶やかな長い髪を高い位置でひとつに結った男が、悠々と書を開いていた。

(誰……?)

 尋ねようとしたが、布に邪魔された。
 あるいは全身を締めつけてくる恐怖や不安のせいで声が出なかったのかもしれない。

 読んでいた書物を閉じ、棚に戻した彼がゆったりと振り返る。

 眉目秀麗(びもくしゅうれい)で綺麗な顔をしているが、表情はなく冷淡な印象が強い。歳は二十前後だろうか。

 彼の服装は上級の兵士のもののようだった。
 黒銀の鎧をまとっており、肩からは外套(がいとう)のような布を垂らしている。

 鎧をまとえるのは上級の兵の中でも特に上の役職だ。長官か次官だろう。

(錦衣衛? まさか羽林軍……?)

 前者であれば、宮中への不法侵入や薬材を持ち出そうとしていたことが露呈(ろてい)し、連行されたのかもしれない。

 いや、その割にはやり方が乱暴すぎる。
 昏倒(こんとう)させて連れ去るなどという誘拐まがいな手段をとる必要などない。

(錦衣衛じゃない……?)

 必死で状況を整理しようとしていると、それを知ってか知らずか彼がぽつりとこぼす。

「……思ったより冷静なようだな。気絶したときにも悲鳴ひとつ上げなかったとか」

 男は春蘭のもとへ歩み寄り、猿轡(さるぐつわ)のような布をほどいた。
 しかし、ひりつく空気のせいで呼吸は苦しいままだ。

 いったい誰なのだろう。まじまじと彼を見つめる。
 顔に見覚えがないため、面識はないはずだ。

「これは……どういうことなのですか」

 精一杯強気に出るが、彼は眉ひとつ動かさない。

 答える代わりに帯刀(たいとう)していた剣を抜き、春蘭の首に刃を突きつけてきた。